張亮則

出典は『華陽国志』。


張亮則は字を元脩といい、漢中郡の南鄭の人で、陳泰の従弟である。牂牁太守となり、威厳は南方で明らかであった。永昌、越巂の少数民族は叛逆を計画していたが、張亮則を畏怖していたので、(張亮則が)その郡へ任地替えになると、互いに勧告しあって(叛逆を)中止した。(張亮則はそのことから)「臥虎」と呼ばれるようになった。少数民族を鎮静した功績により護羌校尉に昇進し、中央に召されて扶風太守となり、さらに桂陽へ配置替えとなったが、いずこでも盗賊どもを平定した。巴郡の板楯民族が反乱を起こすと、隆集校尉を拝命して漢中に駐屯した。涼州刺史に異動して、さらに魏郡太守となった。統治ぶりは至るところで称賛された。霊帝崩御したのち、大将軍の袁紹が上表して長史にしようとしたが、就任しなかった。丞相の曹公が度遼将軍に任命した。

陳恵謙は漢中郡の成固の人で、陳順謙の妹である。陳恵謙は張亮則に嫁いだ。(張亮則が)扶風の官職にあったとき、警備を厳重にして違法行為を取り締まるべきだと部下が言上したので、張亮則が陳恵謙に尋ねると、陳恵謙は答えた。「恩徳教化を広めれば、廉潔さを覚えて恥辱を避けようとするものです。五種の刑罰は三千もあり、それでも多すぎるくらいですのに、これ以上、なにを付けくわえるのですか?」