蜀の諡法

『晋書』景帝紀
文帝が上表して謙譲した。「わたくしの亡き父は丞相、相国、九命の礼をあえて受けず、亡き兄は相国の官位をあえて受けなかったのは、まことに太祖がつねづね区別をしていたからでございます。いま諡号が二祖と同じであることは、必ずや恐懼するところでしょう。むかし蕭何、張良、霍光はみな補佐の功績がありましたが、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。どうしても文武という諡を頂けるのであれば、蕭何ら(の前例)によって(文字)の追加をお願いいたします。」詔勅により許され、忠武と諡された。

魏晋では「文」「武」といった諡号では二祖(曹操曹丕)と同じであるのは恐れ多く、蕭何らと同じく二字の諡号にすることが「譲」と考えられていた。

ところが蜀漢では、太祖劉備が「昭烈」、諸葛亮が「忠武」、関羽が「壮繆」であり、以下の張飛が「桓」、馬超が「威」、黄忠が「剛」、龐統が「靖」、法正が「翼」、蔣琬が「恭」、費禕が「敬」、陳祗が「忠」、夏侯霸は不明だが、蜀漢においては二字諡号のほうが重いように見える。とすれば趙雲の「順平」も諸葛亮関羽に次ぐものということになろう。