『後漢書』注に引く『帝王紀』は、献帝の字が「伯和」であったとしている。劉虞の子が、帝諱を冒している。
河北に新皇帝が即位していた可能性がある。初平二年(一九一)、袁紹は韓馥とともに劉虞を帝位に即けようとしたが、袁術や曹操の反対に遭ったばかりか、劉虞その人に峻拒されて計画は頓挫し、献帝に頭を垂れざるをえなかった。というのが史書の語るストーリ…
後漢の献帝は帝位を劉虞や劉表に譲るつもりだったのかもしれない。初平四年(一九三)、献帝は段訓を使者として劉虞を督六州事としている(『後漢書』劉虞伝)。その六州の内訳は定かでないが、配下の公孫瓚が督四州(幽州、幷州、青州、冀州)になっている…
引用をストックしました
引用するにはまずログインしてください
引用をストックできませんでした。再度お試しください
限定公開記事のため引用できません。