河北帝

河北に新皇帝が即位していた可能性がある。

初平二年(一九一)、袁紹は韓馥とともに劉虞を帝位に即けようとしたが、袁術曹操の反対に遭ったばかりか、劉虞その人に峻拒されて計画は頓挫し、献帝に頭を垂れざるをえなかった。

というのが史書の語るストーリーなのだが、どうにもそのストーリーとは辻褄の合わない事実が出てきてしまう。

たとえば曹操は挙兵当時、奮武将軍を自称していたが、これは献帝との連絡が断たれたための仮の自官とみればそう不自然なことではない。その後、曹操は東郡太守、兖州牧に就任している。しかし、これは献帝の承認を得ていない。そればかりか、献帝の任命した兖州刺史の金尚を実力行使でもって拒絶している。陳琳の檄文によると、曹操を東郡太守、兖州刺史に推挙したのは袁紹だというが、その就任を献帝が承認していないのであれば、そもそも袁紹の上表文を納れ、曹操をその職に任じたのは何者なのだろうか?

袁紹も同様である。韓馥の地位を奪って冀州牧を称したが、やはり献帝の任命した冀州刺史の壺寿を拒絶、あろうことか殺害に至っている。献帝に刃を向けるに等しい行為である。

韋昭の『呉書』は、曹操が朝廷に要請して、陶謙武装解除させるよう詔勅を発行させた、と述べている。裴松之は、この当時、曹操はまだ献帝を擁していないのだから、この詔勅曹操の要請によるものであるとはいえない、と疑問を呈している。しかし、それではなぜ献帝はこのような詔勅を出して曹操に出兵の口実を与えたのか。まったくメリットのないことである。献帝ではない、別の何者かが詔勅を発行した可能性はないのだろうか?

公孫瓚は袁紹と戦うにあたり、袁紹が玉を刻んで印璽を作り、黒い袋に文書を入れて詔勅だと偽称した、と告発している。これは果たして、敵対者を貶めるためのプロパガンダに過ぎないのだろうか?


姓名は分からないが、献帝とは違う、別の何者かが袁紹に擁立されて帝位に即いていた可能性はあながち否定できないのではないだろうか。