またかよ、と

そもそも、テキストに厳密さを求めるのは当然の要求だ。だから私は、『三国志』などの電子テキスト化を進めるに際しても、中華書局や中央研究院や筑摩書房が削除した文言を復活させたりしている。たとい、それが明らかな誤字であったとしてもだ。たとえば「張遼伝」には「以氐六県叛」とあり、それが「以灊・六県叛」の誤りであろうと相当高い蓋然性で考えられたとしても、なお「以氐六県叛」のまま残してある。どれだけありえそうにないことであっても、テキストにそう書いてある以上、よほどの根拠があるのでない限り、勝手に字句を削ったり付け足したりしてはならない。

そのようにして厳密化されたテキストを踏まえ、それでも鮮明でない事柄があれば、もっとも妥当な線を探りつつ真実に迫っていくのが解釈というものだろう。そこからいかような解釈を引き出すかは、それぞれの解釈する者の裁量次第である。もともとテキストに現れないものを模索しているのだから、その解釈をそのまま裏書きするようなテキストなど最初からあろうはずもない。しかしそれでも、できうる限り、テキストと矛盾のない解釈を導き出そうとしているのだ。私が「三国志小事典」において姜維の最終官職を「左大将軍」としたのにも、それなりの根拠と自信を持っている。その記述と、その根拠とが互いにリンクしているわけだ。

彼は、それを書き換えよと言う。このとき私が採りうる対応はおそらく2つあり、1つは、「左大将軍と見なすべき」というみずからの信念を抑圧して彼の言いなりになること、もう1つは、彼との対話を進める中で、自分の解釈よりも彼の解釈の方が妥当性が高いと判断されたとき、みずからの意志で「左大将軍」とする記述を取り下げることである。前者は堪えられない要求であるから、私は後者の立場を採りたい。しかし、前者の対応は私自身によって単独で決定できるのに対し、後者はどうしても彼の意図が前提になってくる。もし、彼が議論への意志を持っていなければ、私は「説得される」ことができないのだ。説得してくれなければ、みずからの意志で取り下げることもできない。

記述と、その根拠とは密接に繋がっているものであるから、彼が要求を通すためには当方が提示する論拠をくずす必要があるだろう。私の解釈が正しいか、あるいは彼の解釈の方が正しいかは、だれにも分からない。だから言っているのだ。「議論しましょう」と。私を説得してください。そして、私を納得させてください。そうすれば、頼まれなくても、自分の間違いは自分で正しますよ、と。

とりあえず蜀将スレ@2chから再掲しておく。

204 :無名武将@お腹せっぷく :2005/06/22(水) 00:16:32
>>198
本物なら一つお願いが
姜維んとこの「左大将軍」ってのは訂正してよ
三国志中に書かれていない将軍位つくっちゃいかんでしょ

206 :むじん :2005/06/22(水) 00:31:38
>>204
右大将軍が存在する以上、単に大将軍とあれば自動的に左大将軍なんですよ。
閻宇が右大将軍でなかったと証明できれば、話は別ですね。
とりあえず閻宇以前については左を削りました。

207 :無名武将@お腹せっぷく :2005/06/22(水) 00:42:27
>>206
返答ありがとう。
でも悪いがその理屈全然わからんね。
一度たりとも「左」付きの大将軍が史料上に出て来てないのに、よく断言できるなー
「左大将軍」という表記が見つからない限り、姜維は左の付かない大将軍と考えるしかないでしょ。

209 :むじん :2005/06/22(水) 01:22:43
>>207
あなたの企図によってこちらの対応は変化します。
もしご自身の見解を他人に押し付けたいだけなのであれば、
geocitiesあたりでむじんの間違いを「啓蒙」してください。
もしあなたがお互いを高めあうような議論を希望されるなら、
こちらも喜んでお付き合いいたします。「私を納得させてください」

とりあえず、
テキストそのものと、それに基づく解釈を一般向けに説明するのとでは、
おのずとその扱いに差が出てくるのは当然のことと思います。
電子テキスト化の際は、中華書局が勝手に削った字句を戻したりもしてますよ。
たとえば朱霊の息子とか、沛国公武周とか、あの摩陂の呂布とかですね。
それをどう解釈するかについては解釈する側の裁量次第でしょう。

210 :無名武将@お腹せっぷく :2005/06/22(水) 01:23:43
忠告ありがたいが、
問題は史料の読み方や種類じゃないからな。
肝心の論理に穴があるんだから。

「大将軍」姜維
「右大将軍」閻宇
「左大将軍」誰か
の三人がいた可能性だって否定できないわけで、そこを見逃してるのは彼だから。
まして、敢えて見ない振りしてるなら、不誠実な態度は改めてほしい。

可能性の有無をいうなら、どんな無茶なことでも言えます。実際、司馬仲達が宇宙人だったという人までいるんだから(そりゃ確かに可能性は否定できない)。しかも、彼は自分の提示する可能性でもって相手が蓋然性から導き出した解釈を否定しようとしている。もしテキストにそのまま記述のないことは解釈や推定さえ許さぬという立場を守るのであれば、これは重大な過ち、自己矛盾ではないだろうか。ましてや1%だに満たぬ可能性を提示してみせるなどもってのほか、論外なのである。

そもそも、私には、彼がなぜそのような要求を突き付けてくるのかが理解できない。もし自分の解釈との食い違いが我慢できないというのであれば、ただ単に見なけりゃそれで済む話なのだ。もし「間違った解釈」が世に広まることを恐れるならば、自分でサイトを開設するなりなんなりして、その間違いを批判し、立証し、みんなを「啓蒙」すればいいのだ。なぜそうしないのだろうか?

こういうクレーマーがあとを絶たないので、いささかうんざりしている。