平津都尉

ちくま『三国志』賈詡伝
董卓が洛陽に入城すると、賈詡は太尉掾のまま平津都尉に任じられ、討虜校尉に栄転した。

「平津都尉」というと、いっけん津(渡し場)を守りしずめる将校とも読めそうだけど、平津というのは地名なのです。河南尹には黄河に面する平県があり、この県内にある黄河の渡し場が平津。黄河の対岸は、王匡・袁紹・韓馥らの勢力圏で、実際、王匡は河陽津に布陣しています。河陽は黄河をはさんで平県の対岸にあり、つまり平県の平津から黄河をわたると河陽津から河陽県にいたるというわけですね。平津の別名が河陽津である、という言い方もされます。

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平県の上流に平陰県というのがあって、董卓はここから黄河をわたって王匡の背後をつこうとしました。しかし、それは見せかけで、実際には小平津から直接、黄河をわたって王匡軍の背後から攻撃をかけました。この小平津というのは平津の別名です。

つまり、王匡をはじめとする河北からの侵略軍を防ぐため、いちばんの矢面に立ったのが平津都尉というわけで、軍事的にきわめて重要な地位なんです。これだけの地位に賈詡はついてたのですね。ただし、王匡との戦闘があった時点で、賈詡が在職していたかどうかは分からないのですが。

さかのぼること中平元年(一八四)三月、黄巾賊の侵略から洛陽を守るべく、その周囲にある八つの関所に、これを守る将校を配置しました。いわゆる八関都尉です。平津都尉は、この八人の将校の一人です。