南陽は人口が多かったか

後漢書』郡国志によると南陽郡の戸数は52万8551、口数は243万9618。徐州が五郡を合わせて戸数46万6054、口数279万1680だから、南陽一郡はほぼ徐州一州に匹敵するほど人口が多かったといえる。それは事実だろうか?
郡国志に掲示されている口数とは戸籍に登録された人口のことである。ということは、調査の方法や巧拙によって登録漏れやごまかしが生じ、実際の人口とは違った数値が上がってくる可能性を考慮しなければならない。

州郡にとってみると、戸口を実態より過大に誇張する理由はない。租税や夫役の基準値となるため、むしろ過小に申告したいインセンティブが働くはずだ。だから南陽郡の戸口の多さよりも、徐州の戸口の少なさを疑うべきだろう。

徐州など、他の州郡が戸口を過小に申告しているという直接的な証拠はない。しかし、次のようなエピソードがある。

後漢書』劉隆伝
(原文)是時,天下墾田多不以實,又戶口年紀互有增減.十五年,詔下州郡檢覈其事,而刺史太守多不平均,或優饒豪右,侵刻羸弱,百姓嗟怨,遮道號呼.時諸郡各遣使奏事,帝見陳留吏牘上有書,視之,云「潁川﹑弘農可問,河南﹑南陽不可問」.帝詰吏由趣,吏不肯服,抵言於長壽街上得之.[一]帝怒.時顯宗為東海公,年十二,在幄後言曰:「吏受郡勅,當欲以墾田相方耳.」帝曰:「即如此,何故言河南﹑南陽不可問?」對曰:「河南帝城,多近臣,南陽帝鄉,多近親,田宅踰制,不可為準.」帝令虎賁將詰問吏,吏乃實首服,如顯宗對.於是遣謁者考實,具知姦狀.
(訳文)当時、天下の墾田の多くは実態から外れており、また戸口は年次によって増えたり減ったりしていた。建武十五年、州郡に詔勅を下して実態を調査させた。ところが刺史や太守の多くは公平でなく、中には豪族を優遇したり、貧民には厳しくあたっている者もあって、百姓たちは路上に立ちどまって恨めしさに悲鳴をあげた。諸郡はそれぞれ使者を出して報告に上がらせていたが、帝(光武帝劉秀)は陳留の役人の報告書に「潁川・弘農は調査せよ、河南・南陽は調査してはならぬ」と書いてあるのを見つけ、どこのだれが書いたのかと役人に厳しく問いただした。役人は正直にならず、「長寿街の町角まで来たとき、それに気づきました」と嘘をつくので、帝は腹を立てた。当時、顕宗(明帝劉荘)は東海公であり年齢は十二歳、とばりの裏にひかえて、「役人は郡命を受けており、墾田を平等にしたくないのでしょう」と言った。帝が「だとすれば、河南・南陽を調査してはならぬとあるのは、なぜか?」と訊ねると、「河南は首都なので側近が多く、南陽は陛下の故郷なので皇族が多くございます。田んぼや邸宅を制度どおりに扱わぬよう、基準を守るなと言っているのです」と答えた。帝が虎賁に命じて役人を詰問すると、役人はようやく顕宗の言うとおりだと自白した。この一件により謁者を派遣して事実を調べさせ、悪事をすべて明らかにした。

つまり、光武帝が耕地面積や戸籍人口を調査させたところ、河南・南陽の郡守たちは側近・皇族の意向をうけて過小に申告をした、というのである。

あらためて謁者を派遣して再調査をさせているとはいえ、それによって本当に正確なデータは得られたかといえば、これも首肯しがたい。郡守たちがそうであったように、このときの謁者も買収されていたのではないかとの疑いは晴れない。けっきょく光武帝の怒りなど梨のつぶてというもので、せいぜい多少は前回の数値に上乗せするという程度で、依然、実態から乖離したデータしか上がってこなかっただろう。

ただ、南陽だけは光武帝の故郷ということで、かえって、ごまかしが難しかったのではないか。もともと虚偽申告へのインセンティブがもっとも強い地域であるから、そのぶん光武帝の監視の目も厳しく、しかも光武帝は故郷の実状をよく知っているのである。ごまかすとしても光武帝ですら気づかない程度にとどまり、結果として、他の州郡に比べれば実数に近いデータが取られ、それが郡国志において他の州郡と比べて突出した戸籍人口に現れているのだろうと思われるのだ。

というわけで、漠然と、ではあるけれども、実際の南陽の人口は郡国志に書かれているほどには他の州郡に比べて多くはなかったのではないか、と思っている。