官渡戦と兗州

曹操が兗州を呂布に奪われ、いっそのこと兗州を捨てて徐州に根拠地を移してしまおうと考えたとき、荀彧は「むかし高祖は関中をたもち、光武は河内によりました。黄河・済水は天下の要衝、将軍にとっては関中・河内に相当します」と諫めた。曹操はこれに従って兗州を平定し、これを足がかりに四方を経略した。兗州は、曹操の力の根源であった。

にもかかわらず、天下分け目の官渡の戦いにおいて、史書に兗州の動向についての言及はほとんどない。
官渡の戦いが勃発して兗州が最初に脅かされたのは、白馬攻防戦だろう。袁軍の顔良らが黎陽津をわたって劉延の立てこもる白馬城を包囲したが、曹軍の関羽らによって駆逐されている。しかし曹軍はこの後、意図不明の反転をおこない、袁軍は延津まで進んで本隊に合流、一方、白馬や劉延の名は史書から見えなくなってしまう。曹軍の反転によって白馬以北が袁氏の手に落ちたとしか思われない。

もともと曹操献帝を許に迎えたとき、程昱を兗州都督としている。これは劉備荊州関羽に委ねたことと比較できるだろう。ところが、官渡の戦いにおいて、程昱が属領たる兗州を統括して袁軍を側面から脅かしたという記録はない。それどころか、袁軍を油断させるため鄄城の守兵を制限したことで、袁軍が眼前を横行することすら許している。兗州を都督する余裕などなく、鄄城一つを守ることで手一杯だったのだ。

このほか李典がいた。かれは離狐太守だったというが、もともと離狐郡というものは存在せず、それまで県だったものを、袁軍の侵入によって兗州の大部分を失ったため、辛うじて残った地域だけをまとめて郡に仕立てあげたものだろう。李典の本伝を見ても、とくに交戦の記録はなく、ただ私兵を使って曹軍に補給したとするだけである。おそらく程昱と同じように、一城を守るくらいの威力しかなかったのだろう。この二人は、官渡戦のあとも、袁軍の高蕃を襲撃するときに協力しあう姿が見られる。

また呂虔もあった。かれは泰山太守であり、李典に比べればはるかに実力のともなった太守だったといえる。しかし、それでも領内には袁軍の中郎将郭祖・公孫犢らがおり、決してその領域は安定を見ているとはいえなかった。おそらく呂虔と郭祖らが交戦しているあいだに、官渡の本戦が決着したため、呂虔がその地位を守りとおしたということだろう。もし本戦で曹軍が負けれていば、郭祖らが泰山郡のあらたな支配者になったであろうことは容易に想像される。

官渡の戦いにあって、曹軍に身をおいて兗州にあった者といえば上記三人のほかには見あたらない。やはり、白馬攻防をへて、兗州のほぼ全域が袁軍の手に落ちていたと見るべきではないだろうか。