揚州は人口が少なかったか

作家の陳舜臣さんが、ある雑誌で、揚州は開発の遅れた後進地域なので人口が少なく、孫権が夷洲経略を企図したのもそのためだと語っていた。それは事実だろうか?
後漢書』郡国志を見てみると、揚州の人口は400万人で、兖州や青州とほぼ同等、280万人の司隷や徐州よりずっと多い。600〜700万人の予州・冀州荊州益州にはかなわないが、一州の規模としては決して見劣りするものではない。

陳さんは、揚州がのちの六朝から唐代にかけて開発が大きく進展したため、それ以前は未開の地が多く、多くの人口を支えるだけの生産力がなかったと推測されたのだろう。だけど、郡国志のデータを見るかぎりにおいては、その推測は間違っていると言わざるをえない。むしろ、未開発の時点ですでにあれだけの人口を抱えていたことになるわけで、陳さんの評価とは裏腹に、揚州はかなりの生産力を有していたと評価すべきかもしれない。

また夷洲経略の意図についても陳さんの推測には少し問題がある。揚州には山越と呼ばれる不服住民が多く住んでいて、孫権は自国領内でさえ充分に支配できていなかったのだから、土地や住民を求めるなら、まず領内から手がけるべきであって、わざわざ外洋に乗りだす危険を冒して、いるかどうかも分からない夷洲民を探しにいく必要はないはずだ。

ところで、『晋書』地理志では揚州の戸数を30万戸としており、郡国志の100万戸に比べると3分の1以下となっている。後漢末から三国鼎立をへて、晋による一統までに、かなりの流出や除籍があったらしい。中間にあたる孫権の時代でもすでに大部分が失われていただろう。ただ、これは揚州のみならず程度の差はあれ他の州でも同様であって、揚州の人口だけがことさらに減少していたと言うことはできない。

では、実際の三国の人口比はどうであったのか。郡国志のデータから計算してみる。このデータが採られた時期に比べると三国時代の各州の人口は大幅に減少していたとはいえ、ここでは人口ではなく、あくまでも人口比をみたいのであって、州ごとの減少率としてはさほど差はないだろうと思われるので、すこし時代は離れることになるが郡国志に拠ることに大きな問題はないと思う。なお、ここでは郡国志を用いるが、地理志の数値を使えば、また違った比率が導かれるだろう。

魏がほぼ完全に支配していたのは司隷、予州、冀州、兖州、徐州、青州涼州、幷州、幽州。ただし、幽州の遼東以東は公孫氏の自治を認めており、涼州の武都は蜀の諸葛亮に奪われていたので除外する。これに荊州南陽一郡と揚州の九江一郡、荊州の南郡と江夏の北半、揚州の廬江の北半、益州の漢中の東半を加える。それらは郡民の半数を得たとしよう。このほか幷州の北部の支配も失っているが計算がややこしくなるのでここでは考慮しないことにする。以上を合計すると約3180万人となる。

蜀は益州のほぼ全土を支配している。そのうち漢中の東半を魏に奪われているが、涼州の武都をそっくり切りとっている。益州南部を充分に支配できたかといえば怪しいがとりあえず考慮しないものとする。以上を合計すると約719万人となる。

呉は揚州、交州の大部分と、荊州の南半を支配した。揚州の九江と荊州南陽はまるまる一郡、荊州の南郡と江夏、揚州の廬江は北半を魏に奪われている。交州の南端は支配が怪しいがここでは考慮しないことにする。以上を合計すると約813万人となる。

蜀と呉はあまり人口に差がなく、呉・蜀を合わせれば魏の半分くらい、比でいえば魏4に対して蜀1、呉1というところ。南北の差はたしかに大きいが、その一方で思っているほどの差ではないという感じもある。

というわけで、漠然と、ではあるけれども、呉(または揚州)の人口は陳舜臣さんが言うほどには少なくなかったのではないか、と思っている。