都官従事 その2
これが疑問だったので、『後漢書』『三国志』『晋書』を検索してみたら、都官従事をはっきり河内出身とする記述はほとんどなかった。河内出身にあてはまるのはせいぜい朱漢、向雄、孫鑠の三人くらい、出身地が分からないのが張恕、劉享、孫琰、明らかに河内以外の出身なのが趙磐、劉毅、程衛、王接、温嶠。鮑永のころはまだ慣例ができてなかったとしても、むしろ河内出身者のほうが少ないくらいだ(もちろん全郡に対する比率としては多いけど)。
張華が『博物志』で「中興以来、都官従事のほとんどは河内出身者で、貴族や外戚を打撃した」と言ってるので、すっかり疑うことなく信じこんでたのに、どうも違うらしい。
『後漢書』鮑永伝
扶風の鮑永を招いて都官従事とした。
『後漢書』趙岐伝の注に引く『三輔決録注』
趙岐の長兄である趙磐は州の都官従事となったが、早くに亡くなった。
『後漢書』趙岐伝
趙岐は京兆長陵の人である。
『晋書』向雄伝
向雄は河内山陽の人である。司隷の鍾会が向雄を獄中から招いて都官従事とした。
向雄を都官に任命したのが王経、鍾会の二説ある。
『晋書』何曾伝
都官従事の劉享が何曾は贅沢すぎると弾劾した。
『晋書』石苞伝に補する孫鑠伝
孫鑠は河内の人である。太守の呉奮は孫鑠を司隷の都官従事に推薦した。
『晋書』劉毅伝
劉毅は東萊掖の人である。魏の末期、本郡が孝廉に推挙し、司隷の都官従事に招かれた。
『晋書』劉毅伝に補する程衛伝
程衛は広平曲周の人である。劉毅がその名声を聞いて都官従事に招いた。
『晋書』王接伝
王接は河東猗氏の人である。平陽太守の羊亮がかれを司隷校尉の王堪に推薦したので、出向して都官従事に任命された。
『晋書』江統伝
洛陽に投獄された者はまだ釈放されていなかったので、都官従事の孫琰が「彼らを釈放すべきです」と賈謐を説得した。
『晋書』温嶠伝
温嶠は司徒である温羨の弟の子である。司隷の任命により都官従事となった。
『晋書』温羨伝
温羨は太原祁の人である。