韓馥は生きていた

後漢書』五行志注
(原文)袁山松書曰:「三年十月丁卯,日有重兩倍.」吳書載韓馥與袁術書曰:「凶出於代郡.」
(訳文)『袁山松書』に言う。「初平三年十月丁卯、太陽に二倍の大きさの暈がかかった。」『呉書』に載せる袁術あての韓馥の手紙に言う。「凶事は代郡より出来いたしました。」

初平三年十月の天変について韓馥が袁術に手紙を送っている。韓馥は前年七月、冀州牧の地位を袁紹にゆずり張邈に身を寄せていた。のちに張邈の真意をうたがい自殺したというが、少なくともこの時期までは生きていたわけだ。袁術との通好を韓馥に許していたということは、張邈自身もやはり袁術と友好的だったのだろう。代郡の凶事とは、劉虞を暗示しているのかもしれない。前年まで劉虞を擁立しようとしていたことを思いおこせば感慨深い。