陳登vs孫策

三国志』張邈伝の注に引く『先賢行状』によると、陳登は匡琦城において2度にわたり孫策の侵攻を防いでいる。

この匡琦城*1だが、まずその名称についてはおそらく人名に由来しているのだろうと言われている*2。ただ、場所が分かってない。孫策伝の注に引く『江表伝』に、陳登は治府を射陽に置いた、とあるので、この匡琦城もその近くだろうという説もあれば、張昭伝の注に引く『呉書』に、張昭が匡琦城を攻めたとある一方、呉主孫権伝では、九江郡の当塗県を攻撃させた、とあることから、当塗県にあったのだという説もある。実際、陳登の支配領域から見ると前者の方が正しいように思われる。

孫策戦のうち、2度目は功曹の陳矯を使者として曹操に救援を求めており、陳矯伝ではなぜか孫策ではなく孫権に攻められたことになっている。このとき陳登を攻めたのは果たして孫策なのか、孫権なのか。どちらかが間違っているのである。

わたしの知るかぎり、このころ孫権広陵を攻めたという例はなく、おそらく孫策とするのが正しい*3。陳登の伯父にあたる陳瑀が広陵郡の海西県に駐屯しており、孫策は呂範・徐逸に命じてこれを大破している。ただし孫策自身は呉郡の厳白虎を征討しており、みずから広陵を攻めたわけではない。陳登はその報復として厳白虎の残党に手を回して孫策を暗殺させたのであるが、ところで、その陳瑀が駐屯していたという海西は、会稽郡から見れば射陽よりずっと後方、つまり陳登の目前を通過しなければ到達できない場所にある。陳登は2度の戦いのいずれも寡兵のため対応できず、奇策を用いざるをえなかったが、それは呉軍が戦力の優位をたのんで敵地深く侵入した可能性を示唆している。匡琦城の籠城戦と、呂範の海西侵攻が、同一のキャンペーンのおのおの一部を構成していたのではないだろうか。

陳登はこの戦いの功績により東城太守に昇進したとされ、下邳国の東城県といえば魯粛の出身地でもあり、これが分離独立して東城郡に昇格したと考えられているが、あるいは東郡太守の誤りであるとする説もある。なるほど本郡から分割されたものとはいえ、このような片田舎の小郡の太守では昇進と呼びうるか怪しいものである。ただし広陵の人民が郡境を越えて陳登にすがりついたという記述もあり、やはり東郡と解するのは難しいようだ。なお、ほかに陳登を東城太守と呼ぶ記述はなく、たとえば華佗伝などでも陳登は広陵太守として見えており、実際には着任する直前に死亡していた可能性がある。

また、陳登は呂布の誅伐により伏波将軍に任命されているが、のちに陳登自身が語るように後漢の元勲である馬援も拝命した由緒ある名誉な称号で、陳登が当時、ひとかどの群雄として尊重、礼遇されていたことが分かる。陳登の後、伏波将軍に在職したのは、26軍を都督して居巣に駐屯した夏侯惇、揚州刺史孫礼、持節監軍甄像、新野に駐屯した満寵があり、いずれも孫呉に対する備えとして配置されたものばかりである。陳登を直接後任したのは夏侯惇であり、かれが鄴の陥落をもって着任しているところを見ると、陳登が死んだのは建安九年(204)以前なのであろう。とすれば、ますます孫権が匡琦城を攻めたであろう可能性は低くなる。

*1:陳矯伝では「匡奇」。

*2:常林伝に見える「陳延壁」のように。

*3:2度目が孫策ならば、必然的に1度目も孫策ということになる。