光武帝紀30 「高帝に如かず」

盧芳が天子を僭称したのと入れかわりに、隗囂が劉秀に帰服します。


十二月、盧芳*1が天子を自称して九原*2に入り、複数の郡を占拠した。


以前のこと、劉秀*3は来歙*4に訊ねたことがある。「いま西方の州はまだ帰服しておらず、子陽*5が帝号を称したが、わたしは関東鎮圧の仕事に当たっており、だれに西方攻略を任せればよいかも分からない。どう思うかね?」来歙はそこで自薦して言った。「臣*6はかつて関中*7にて隗囂*8との付き合いがあり、最初、かれは漢朝のために計画を立てておりました。いま陛下の聖徳は隆盛しておりますので、願わくば臣へ一本の節*9をお預けくださり、丹青の信頼*10を開くことをお許しください。隗囂はかならずやご命令に服し、さすれば公孫*11は自然に滅ぶことでありましょう。情勢からいって論ずるまでもないことです。」劉秀はその通りだと思い、来歙に節を持たせて(隗囂を)説得させ、往来は数年のあいだ続いた。

このとき、来歙はふたたび馬援*12とともに隗囂の説得に出向いた。隗囂は馬援と一夜を過ごし、京師*13の善悪を訊ねた。馬援は答えた。「以前、京師へ参りましたおり、およそ数十回は拝謁いたしましたが、待遇はいつも夜中から日の出まで続きました。馬援が主君に仕えるようになってから初めてのことでございます。才能仁徳は人を驚かすほど、武勇計略は人を寄せつけません。肚を割って真心で付き合い、長所も欠点も隠すことはなく、天下の仕事を絵に描いて漏れはなく、敵軍を見積もって勝利を決し、闊達にして大略の多いさまは高帝*14と同等です。経学を手広く学び、政治はすっきり裁かれ、かなう者は見たことがございません。」

隗囂が言った。「あなたの言うとおりであれば、高帝以上ではないかね?」馬援は言った。「いいえ。高帝は広大な度量をお持ちで、可もなく不可もなく*15、です。いま陛下は官僚の仕事を好まれ、行動は規範にのっとり、またお酒を飲むことはございません。そこが及ばないところです。」隗囂は「それならば、まさか高帝以下ということはあるまい!」

隗囂は内心では信じきっていなかったが、やむをえず、太子*16の隗恂*17を側近として入朝させた。(隗恂は)胡騎校尉*18に任命され、鎸羌侯*19に取りたてられた。馬援もまた家族をつれて京師へのぼり、賓客をつれて上林*20屯田を実施し、国家の威信を高めて豪傑どもを招致し、少しでも功績を立てたいと陳情した。劉秀はそれを許可した。


この年の冬、大司徒*21伏湛*22を罷免し、尚書*23侯霸*24を司徒*25とした。侯霸は字*26を君房*27といい、河南*28*29の人である。厳格にして威容があり、財産は千金を数えたが殖財には手を出さず、『詩経』や『尚書』(の研究)に意を注いだ。成帝*30から哀帝*31の時代に出仕して郎*32を務め、王莽*33の時代には職務を歴任して評判があり、臨淮*34太守*35に昇進した。王莽が敗北すると、侯霸が臨淮を保持して守りを固めたので、役人や民衆たちは安心した。

更始帝*36政権の初期、謁者*37を派遣して侯霸を招かせたが、百姓たちは老人も子供も抱きあって泣き、使者の車をさえぎったり、路上に寝転がったりして、みな口々に「どうか侯霸さまを残しおいてください」と訴えた。まる一年もすると、民衆たちは乳母に向かって「子供を取りあげるなよ。侯君*38がいなくなれば、どうせ無事ではいられないんだから」と言いあうようになった。謁者は、侯霸がお召しに応じた場合、臨淮を失ってしまうのではないかと心配し、あえて任命書を渡そうとせず、詳しく事情を報告した。

更始帝が敗北して劉秀が即位すると、侯霸は召しよせられて尚書令になった。そのころ朝廷は新たに開かれて制度も始まったばかりで、政令は民衆にとって不便なところがあった。侯霸はいちいち報告してこれを整理していった。


侯霸は太原*39出身の閔仲叔*40を招聘したとき、(閔仲叔が)到着しても慰労するだけで政事には言及しなかった。閔仲叔は面と向かって言った。「はじめ明公*41のお招きを受けて、喜ぶと同時に心配もいたしました。なぜでしょうか。明公にお知りいただけたのを喜び、力不足ゆえに成果を挙げられないことを心配したのです。役所の門をくぐるまでには喜びも心配も半分は和らぎ、じかに仕事や役人を拝見いたしました。明公にお会いしたとき、喜びも心配もすっかりなくなってしまいました。なぜでしょうか。政治を明らかにして習俗を清らかにし、陰陽*42を調和させて五品*43を教え、天下の人びとを安心させるにはどうすればよいか、そう明公にお尋ねいただくことを期待していたからです。閔仲叔では質問相手として力不足でしょうか。だとしたら、お招きいただくべきではありません。任用したのに意見を聞かないのであれば、それは人事の失敗です。智者は他人を官位で買収しないもので、それが人事で失敗しないということです。喜びと心配をすっかりなくした理由はこういうことです。」そこで(閔仲叔)は自分を弾劾して辞職し、のちに博士*44としてお召しを受けても出仕せず、自宅で亡くなった。


太子少傅*45の王丹*46がお召しを受けて出ていこうとしたとき、侯霸は息子の侯昱*47に出迎えの挨拶をさせた。王丹が車をおりて返礼すると、侯昱は「わが父は公*48との厚誼を結びたいと願っておられます。どうして息子ごときに拝礼なさるのですか?」と訊ねた。王丹は言った。「君房どのはそうおっしゃるが、わたしは納得してないのでね。」

王丹はあるとき客人の言葉を聞いて(人物を)推薦したことがあった。推薦された人物が罪を犯したため、王丹も連座して免官になったが、決して(客人を責めるようなことは)言わなかった。客人はひどく恥ずかしく思い、自分から王丹のもとを立ちさった。王丹がとつぜん太子太傅を務めることになり、人をやって客人を呼びよせて、かれに会った。「なんと王丹を見る目のないことよ!*49」客人は昔のように安心した。

息子の同窓生で親を亡くした者がおり、(息子は)王丹に報告して駆けつけようとした。王丹はそれを五十回も殴りつけた。ある人がそのわけを訊ねると、王丹は言った。「世間で評判なのは鮑叔*50・管夷吾*51、その次が百里*52・蹇叔*53、最近では王陽*54・貢禹*55(の交友関係)だ。それから年月をかさねて久しく、そうしたことは困難になっている。張*56・陳*57は最後に凶事にあい、蕭*58・朱*59は最後に敵対にいたった。だから息子には交友することは難しく、慎重さを保ち惑わないようにせねば、全うすることはできないことを教えてやったのだ!」


王丹は字を仲回*60といい、京兆*61下邽*62の人である。王莽の時代、たびたび招聘されたが出てゆかず、隴西*63に世を避けた。隠居して志を養い、財産は千金を数えたが、目一杯に施しを好んだ。毎年、農作業を終える時期になると、努力して収穫のたくさんあった者には、酒や肴を用意してねぎらい、怠けて収穫の少なかった者には、努力しなかったことを恥ずかしく思わせたので、農作業に精を出さぬ者はなくなった。集落はそれに感化されて、とうとう裕福になった。

村里に罪を犯した者があれば、その父兄を教えさとして法的に処理し、身内を亡くした者があれば、その遺産を計算して彼らのために(納税免除の)基準を定め、王丹がじきじきにその処理に当たった。こうして政務にあたること十年、民衆はみな温厚実直な人柄になった。

陳遵*64というのは豪傑であったが、友人が喪に服したとき百匹の絹を香奠とした。王丹だけは一匹の絹を送り、「王丹のこの絹はすべて織機から出てきたものです*65」と言った。陳遵は恥じらいの色をみせ、王丹と交流を結びたいと言ってきたが、王丹は承知しなかった。更始帝政権の時代、陳遵は匈奴*66への使者として北方へ行くことになり、行きがけに王丹に別れを告げた。王丹は陳遵に言った。「ともに乱世に遭遇して、われわれ二人だけが天地に残されました。あなたはいま最果ての地へ旅立つことになりましたが、餞別の品物がありません。あなたには挨拶しないことを餞別にいたしましょう。*67」かれの不服従の気高さは、みなこういった具合だった。

衛尉*68である銚期*69、執金吾*70である寇恂*71もまた、かれを慕い、友人とした。名声はこの時代に高らかであった。しばらくして官位を譲り、自宅で亡くなった。

*1:ろほう。群雄の一人。

*2:きゅうげん。郡名。

*3:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*4:らいきゅう。

*5:しよう。公孫述(こうそんじゅつ)の字(あざな)。

*6:わたくし。臣下の一人称。

*7:かんちゅう。函谷関の内側、長安(ちょうあん)の一帯。

*8:かいごう。群雄の一人。

*9:はた。勅使の証。

*10:揚雄の『法言』に「王者の言葉は丹(あか)と青のように鮮明である」とあるのを踏まえた言葉。

*11:こうそん。公孫述のこと。

*12:ばえん。

*13:みやこ。ここでは皇帝の劉秀を指す。

*14:こうてい。劉邦(りゅうほう)のこと。前漢創始者

*15:論語』に見える、孔子の自己評価。

*16:たいし。長子の誤り。

*17:かいじゅん。

*18:こきこうい。官名。

*19:せんきょうこう。「鎸羌」を称号とする諸侯。鎸羌は「少数民族羌族を斥ける」の意。

*20:じょうりん。地名。

*21:だいしと。官名。三公の一つ。民政担当の大大臣。

*22:ふくたん。

*23:しょうしょれい。官名。書記長。

*24:こうは。

*25:しと。大司徒に同じ。

*26:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。

*27:くんぼう。

*28:かなん。郡名。

*29:みつ。県名。

*30:せいてい。前漢の皇帝・劉驁(りゅうごう)。

*31:あいてい。前漢の皇帝・劉欣(りゅうきん)。

*32:ろう。官僚の見習い。

*33:おうもう。新王朝の皇帝。前漢を滅ぼした。

*34:りんわい。郡名。

*35:たいしゅ。官名。郡の長官。

*36:劉玄(りゅうげん)のこと。

*37:えっしゃ。官名。

*38:こうくん。侯霸のこと。

*39:たいげん。郡名。

*40:びんちゅうしゅく。名が貢(こう)、字が仲叔。

*41:めいこう。大臣の尊称。

*42:君臣、夫婦などの上下関係。

*43:五つの道徳。

*44:はくし。官名。

*45:たいししょうふ。官名。皇太子の教育係。

*46:おうたん。

*47:こういく。

*48:こう。大臣の尊称。

*49:「わたしは、あなたを恨むような人間ではないよ」という自負の言葉。

*50:ほうしゅく。鮑叔牙(ほうしゅくが)のこと。かつて敵対した管夷吾を大臣に推挙した。

*51:かんいご。管仲(かんちゅう)のこと。

*52:ひゃくりけい。大臣に登用されたとき、知られざる賢者として蹇叔を推挙した。

*53:けんしゅく。

*54:おうよう。王吉(おうきつ)のこと。字が子陽(しよう)。貢禹とは友人付き合いがあり、行動もよく似ていた。

*55:こうう。

*56:ちょう。張耳(ちょうじ)のこと。はじめ陳余と刎頸の交わりを結んだが、のちに対立。陳余は処刑された。

*57:ちん。陳余(ちんよ)のこと。

*58:しょう。蕭望之(しょうぼうし)のこと。朱博の推挙により大臣に昇ったが、のちに朱博と仲違いした。

*59:しゅ。朱博(しゅはく)のこと。

*60:ちゅうかい。

*61:けいちょう。郡名。

*62:かけい。県名。

*63:ろうせい。地名。隴(ろう)の関所より西側の地域。

*64:ちんじゅん。

*65:陳遵が市場で買ったのに対し、王丹は自分で織ったということ。

*66:きょうど。北方の少数民族

*67:前漢の汲黯(きゅうあん)が、大将軍衛青(えいせい)に拝礼しない理由を「揖客(簡単な挨拶だけをする客)がいることは、かえって尊重することになりませんか」と語ったことを踏まえ、陳遵を衛青になぞらえている。

*68:えいい。官名。九卿の一つ。宮門衛兵担当の大臣。

*69:ちょうき。二十八将の一人。

*70:しっきんご。官名。九卿の一つ。宮殿警備担当の大臣。

*71:こうじゅん。二十八将の一人。