馬成伝

後漢書』馬成伝を訳してみたよー。

馬成字君遷,南陽棘陽人也.少為縣吏.世祖徇潁川,以成為安集掾,調守郟令.[一]及世祖討河北,成卽棄官步負,《惠棟曰:『東観記』云:成羸衣步擔渡河謁上.》追及於滿陽,以成為期門,從征伐.世祖卽位,再遷護軍都尉.

[一] 郟,縣名,今汝州縣也.《先謙曰:注見光武紀.》


建武四年,拜揚武將軍,督誅虜將軍劉隆﹑振威將軍宋登﹑射聲校尉王賞,發會稽﹑丹陽﹑九江﹑六安四郡兵擊李憲,時帝幸壽春,設壇場,祖禮遣之.[一]進圍憲於舒,令諸軍各深溝高壘.憲數挑戰,成堅壁不出,守之歲餘,至六年春,城中食盡,乃攻之,遂屠舒,斬李憲,追擊其黨與,盡平江淮地.

[一] 應劭風俗通曰:「謹案禮傳,共工氏之子曰修,好遠游,舟車所至,足跡所逮,靡不窮覽,故祀以為祖神.祖,徂也.」


七年夏,封平舒侯.[一]八年,從征破隗囂,以成為天水太守,將軍如故.冬,徵還京師.九年,代來歙守中郎將,率武威將軍劉向等破河池,遂平武都.[二]明年,大司空李通罷,以成行大司空事,《錢大昕曰:『光武紀』,馬成平武都在建武十一年,其行大司空事在十二年.與傳異.》居府如真,數月復拜揚武將軍.

[一] 平舒屬代郡.《沈欽韓曰:廣靈縣志,縣西四十里平木村,南俗呼平水城,卽舒之誤.》

[二] 河池,縣,一名仇池,屬武都郡,今鳳州縣也.《先謙曰:注見光武紀.》


十四年,屯常山﹑中山以備北邊,幷領建義大將軍朱祐營.又代驃騎大將軍杜茂繕治障塞,自西河至渭橋,[一]河上至安邑,[二]太原至井陘,[三]中山至鄴,皆築保壁,起烽燧,十里一候.在事五六年,帝以成勤勞,徵還京師.邊人多上書求請者,復遣成還屯.及南單于保塞,北方無事,拜為中山太守,上將軍印綬,領屯兵如故.二十四年,南擊武谿蠻賊,無功,[四]上太守印綬

[一] 西河,今勝州富昌縣也.渭橋本名橫橋,在今咸陽縣東南.《沈欽韓曰:『隋志』,勝州改楡林,領楡林﹑富昌﹑金河三縣.『舊唐志』,勝州初領楡林﹑河濱﹑連谷﹑銀城四縣,後割連谷﹑銀城置鱗州.『通典』『元和志』,不言富昌廢於何時.『一統志』,富昌在鄂爾多斯左翼前旗界,隋勝州在左翼後旗.後漢西河郡治離石故城,今汾州府永甯縣治.注僅指富昌一縣,疏矣.》

[二] 前書曰,河上,地名,故秦內史,高帝二年改為河上郡,武帝分為左馮翊.

[三] 太原,今幷州也.井陘,今屬常山郡,常山今恆州縣也.

[四] 武谿水在今辰州盧谿縣西.


二十七年,定封全椒侯,[一]就國.三十二年卒.

[一] 全椒,縣名,今滁州縣也.《先謙曰:今滁州全椒縣治.》


子衞嗣.衞卒,子香嗣,徙封棘陵侯.香卒,子豐嗣.豐卒,子玄嗣.玄卒,子邑嗣.邑卒,子醜嗣,桓帝時以罪失國.延熹二年,帝復封成玄孫昌為益陽亭侯.《惠棟曰:益陽縣之亭也.屬長沙郡.》


馬成は字を君遷といい、南陽郡の棘陽の人である。若いころ県役人となり、世祖が潁川に進出したとき、馬成は安集掾とされ、呼びかえされて郟の県令代行となった。[一]世祖が河北を討伐することになると、馬成は官職を棄てて徒歩で(自分で荷物を)背負い、《恵棟は言う。『東観記』の言うには、馬成はぼろの着物を着て徒歩で(荷物を)担いで黄河を渡り、帝に拝謁したとのこと。》満陽*1で追いついて期門(門衛)になり、征伐に従軍した。世祖が即位すると、二度の昇進で護軍都尉となった。

[一] 郟は県名。現在の汝州県である。《王先謙は言う。注釈は「光武紀」に見える。》


建武四年に揚武将軍を拝命、誅虜将軍劉隆・振威将軍宋登・射声校尉王賞を監督し、会稽・丹陽・九江・六安の四郡の兵士を動員して李憲を攻撃することになった。このとき帝は寿春に行幸しており、祭壇を設けて祖礼し、かれを派遣した。[一]進軍して舒において李憲を包囲し、おのおの塹壕を深めて塁壁を高めよと諸軍に命じ、李憲がしばしば戦いを挑んできても、馬成は塁壁を固めて出てゆかず、一年あまり守りつづけた。六年の春になり城内の食糧が底を突いてから、ようやく攻撃をかけ、ついに舒をほふり、李憲を斬った。その残党を追撃し、長江・淮水の流域をことごとく平定した。

[一] 応劭の『風俗通』に言う。「慎重に礼伝を検討すると、共工氏の子は修といい、遠く旅行することを好み、舟や車の至るところ、足跡の及ぶところ、見尽くさぬことはなく、古い祠では祖神した。祖とは徂(ゆ)くことである。」


七年の夏、平舒侯に封ぜられた。[一]八年、隗囂の征討に従軍して打ちやぶり、馬成は天水太守となったが、将軍職は元どおりであった。冬、京師に召しかえされた。九年、来歙の後任として中郎将の代行となり、武威将軍劉向らを率いて河池を打ちやぶり、そのまま武都を平定した。[二]翌年、大司空李通が罷免されると、馬成は大司空の職務を代行し、《銭大昕は言う。『光武紀』には馬成が武都を平定したのは建武十一年、大司空の職務を代行したのは十二年とあり、この伝とは異なっている。》役所にあるときは本職のようであった。数ヶ月後、ふたたび揚武将軍を拝命した。

[一] 平舒は代郡に属す。《沈欽韓は言う。『広霊県志』によると県の西方四十里の平木村の南にあり、俗に平水城と呼ばれているという。これは平舒の誤り。》

[二] 河池は県であり、別名を仇池という。武都郡に属す。現在の鳳州県である。《王先謙は言う。注釈は「光武紀」に見える。》


十四年、常山・中山に駐屯して北方に備え、合わせて建義大将軍朱祐の陣営を管理した。さらに驃騎大将軍杜茂の後任として防壁を修繕し、西河から渭橋まで、[一]河上から安邑まで、[二]太原から井陘まで、[三]中山から鄴まで、すべて防壁を築いて狼煙台を建て、十里ごとに見張りを置いた。在職すること五・六年、帝は馬成の精勤を認めて京師に召しかえした。辺境の人びとの多くが上奏して(馬成の復職を)要請したので、ふたたび馬成を駐屯地に戻した。(匈奴の)南単于が城塞を守ることになり北方が平和になったので、中山太守を拝命した。将軍の印綬を返上したが、元どおり駐留軍を監督した。二十四年、南進して武谿蛮の賊徒を攻撃したが功績は挙げられず、[四]太守の印綬を返上した。

[一] 西河は現在の勝州富昌県である。渭橋は本来の名を横橋といい、現在の咸陽県の東南にある。《沈欽韓は言う。『隋志』に勝州を改名して楡林とし、楡林・富昌・金河の三県を所属させたとある。『旧唐志』に勝州ははじめ楡林・河浜・連谷・銀城の四県を所属させ、のちに連谷・銀城を分割して鱗州を置いたとある。『通典』『元和志』では富昌が廃止されのがいつごろなのかについて言及していない。『一統志』は富昌が鄂爾多斯左翼の前旗の境界にあり、隋の勝州が左翼の後旗にあり、後漢の西河郡の治府である離石故城は、現在の汾州府永甯県の治府であるという。注釈が富昌県だけを指しているのは手落ちではないか。》

[二] 前書に言う。河上とは地名である。もともと秦の内史であったが、高帝の二年に改名されて河上郡となり、武帝が分割して左馮翊とした。

[三] 太原は現在の幷州である。井陘は現在の常山郡に属しており、常山とは現在の恆州県である。

[四] 武谿水は現在の辰州盧谿県の西にある。


二十七年、決定により全椒侯に封ぜられ、[一]領国に赴いた。三十二年に卒した。

[一] 全椒は県名。現在の滁州県である。《王先謙は言う。現在の滁州全椒県の治府である。》


子の馬衛が嗣いだ。馬衛が卒すると子の馬香が嗣ぎ、棘陵侯に移封された。馬香が卒すると子の馬豊が嗣いだ。馬豊が卒すると子の馬玄が嗣いだ。馬玄が卒すると子の馬邑が嗣いだ。馬邑が卒すると子の馬醜が嗣いだが、桓帝の時代、罪を犯して国を召しあげられた。延熹二年、帝はまた馬成の玄孫の馬昌を益陽亭侯に封じた。《恵棟は言う。益陽県の亭である。長沙郡に属す。》

*1:蒲陽の誤りのようである。