傅俊伝

後漢書』傅俊伝を訳してみた。

傅俊字子衞,潁川襄城人也.世祖徇襄城,俊以縣亭長迎軍,拜為校尉,襄城收其母弟宗族,皆滅之.從破王尋等,[一]以為偏將軍.別擊京、密,破之,遣歸潁川,收葬家屬.

[一] 東觀記曰:「傅俊從上迎擊王尋等於陽關,漢兵反走,還汝水上,上以手飲水,澡盥鬚眉塵垢,謂俊曰:『今日罷倦甚,諸卿寧憊邪?』」《惠棟曰:陸績云:憊,困劣也.》


及世祖討河北,俊與賓客十餘人北追,及於邯鄲,上謁,世祖使將潁川兵,常從征伐.世祖卽位,以俊為侍中.建武二年,封昆陽侯.三年,拜俊積弩將軍,與征南大將軍岑彭擊破秦豐,因將兵徇江東,揚州悉定.《先謙曰:從郅惲言,禁軍士橫暴,見惲傳.》七年,卒,謚曰威侯.


子昌嗣,徙封蕪湖侯.[一]建初中,遭母憂,因上書,以國貧不願之封,乞錢五十萬,為關內侯.肅宗怒,貶為關內侯,竟不賜錢.永初七年,鄧太后復封昌子鐵為高置亭侯.《沈欽韓曰:『續志』潁川陽翟有高氏侯.『一統志』高氏亭在許州府禹州西南.氏﹑置聲同而訛.》

[一] 蕪湖,縣名,屬丹陽郡.《沈欽韓曰:『水經』濄水注龍亢縣,建武十三年,世祖封傅昌為侯國.其事蓋在徙蕪湖之先.》


傅俊は字を子衛といい、潁川郡の襄城の人である。世祖が襄城を従えたとき、傅俊は県の亭長として軍を迎えいれ、校尉を拝命した。襄城はかれの母や弟らの一族を逮捕し、みな滅ぼした。従軍して王尋らを打ちやぶり、[一]偏将軍となった。別働隊として京・密を攻撃して、これらを打ちやぶった。潁川に帰され、家族の遺体を回収して葬った。

[一] 『東観記』に言う。「傅俊は上に随従して陽関において王尋らを迎撃したが、漢軍は向きを変え、汝水のほとりまで逃げかえってきた。上は手ですくって水を飲み、口ひげや眉の汚れを洗い、傅俊に告げた。『今日はさんざんにくたびれたもんだが、あなたがたはまさか憊(つか)れてないだろうね?』」《恵棟は言う。陸績の言うには、憊れるとは弱りはてることである。》


世祖が河北を討伐することになると、傅俊は十人あまりの賓客と一緒に北方へ向かい、邯鄲で追いついて拝謁した。世祖は潁川の兵を率いさせ、つねに征伐に従軍させた。世祖は即位すると傅俊を侍中とした。建武二年、昆陽侯に封ぜられた。三年、傅俊を積弩将軍に任じ、征南大将軍岑彭とともに秦豊を撃破させ、そのまま軍兵を率いて江東を従えさせると、揚州はことごとく平定された。《王先謙は言う。郅惲の言葉に従って兵士の横暴を禁じたことは、「郅惲伝」に見える。》七年、卒して威侯と諡された。


子の傅昌が嗣いで、蕪湖侯に移封された。[一]建初年間に母を亡くし、「領国が貧しいので封爵は望みません。五十万銭を頂戴して関内侯にしてください」と陳情した。粛宗は腹を立てて関内侯に格下げし、とうとう金銭は与えなかった。永初七年、鄧太后はまた傅昌の子の傅鉄を高置亭侯に封じた。《沈欽韓は言う。『続志』に潁川陽翟に高氏侯ありという。『一統志』に高氏亭は許州府禹州の西南という。氏と置の発音が同じであるから転訛した。》

[一] 蕪湖は県名。丹陽郡に属す。《沈欽韓は言う。『水経』濄水注の龍亢県に、建武十三年、世祖が傅昌を封じて侯国にしたとあり、その事実はおそらく蕪湖へ移封す以前のことであろう。》