二人の勅使 山東へ下向する

袁術史の続き。


初平三年(192年)六月、李傕が政権を掌握すると、この長安政権は八月、太傅の馬日磾と太僕の趙岐を勅使として山東諸将との講和工作を開始する。諸将間での争いをやめさせ、ともに長安政権に協力するよう要請したのである。勅使は洛陽で二手に分かれ、馬日磾が袁術のもとへ、趙岐が袁紹のもとへ向かった。

初平四年の初めごろ、趙岐は河北に到達すると袁紹曹操を召しよせ、公孫瓚には手紙を送って両者を和解させた。公孫瓚は袁紹に手紙を送り、「われわれは賈復と寇恂のような関係だ、ともに朝廷を支えることができるのは幸いである」と無邪気に喜んでいる。趙岐はこれを見届けて安心したのか、当時、張邈が太守を務めていた陳留へ移った。

ところが河北では趙岐が去った直後、状況が一変する。三月、袁紹が北征軍を引きあげてその途中、薄洛津で賓客らを集めて宴会を催していたとき、魏郡の兵士が反乱したとの知らせを聞く。武帝紀の初平二年に、于毒が魏郡を陥落させたとあるのは、おそらくこの事件との混同であろう。袁紹は反乱軍を鎮圧して魏郡を回復、六月には朝歌を征討して(おそらく背後で反乱軍を主導していた)于毒らを斬った。

また、馬日磾の工作もうまくいかなかった。はじめに南陽袁術のもとを訪れ、かれを左将軍に任ずるとの辞令を伝えたが、袁術は節(勅使の旗)を取りあげて馬日磾を勾留した。それから袁術は大軍を動員して兖州に進攻し、陳留に駐屯して曹操と対峙した。二人の勅使は図らずも、この陳留で敵味方の両軍に拘束された形で相まみえることになった。両軍の戦闘の結果、袁術側が敗退し、馬日磾を連れて揚州に去った。

曹操袁術を撃退すると、つぎに徐州の陶謙を攻撃した。陶謙が受け取ったという武装解除詔勅とは、このとき趙岐が伝えたものだろう(陶謙伝の注に引く『呉書』)。趙岐は病気を患ったこともあり、しばらく陳留に滞留する日々がつづいた。


さて、二人の勅使が袁紹袁術のもとを訪れたとき、和平工作の使命に反するように、どちらの地方でもほぼ同時に紛争が勃発している。これは偶然ではなく、二人の勅使が伝えた人事異動に対する反動として、袁紹曹操が反抗したのが真相であるらしい。

袁紹は韓馥を追放して冀州牧の地位を奪い、それが原因で公孫瓚と反目するようになっていたが、長安政権ではこれを憂えたか、壺寿という者を新任の冀州牧として派遣した。しかし、この壺寿は、于毒ともろともに袁紹に殺されている(袁紹伝の注に引く『英雄記』)。そこからさかのぼって考えるに、おそらく壺寿は趙岐に随行して冀州へ下向していたのだろう。そこで韓馥の後任として正規の冀州牧に任ぜられ、袁紹は地位を解かれた形となった。壺寿はもともと袁紹と対立していた于毒に擁立され、魏郡の城門を閉鎖して袁紹を入れまいとしたが、袁紹はその報復として壺寿と于毒をまとめて攻め殺したのである。

また、袁術は兗州刺史の金尚をともなっていた。三年四月、前任の劉岱が黄巾賊に敗れて戦死していたため、金尚はその後任として下向したのである。のちに袁術呂布に送った手紙に「むかし金尚が兖州に向かおうとして、最初に封丘を訪れたが、曹操に待ちぶせされて撃破された」とあり(呂布伝の注に引く『英雄記』)、また一説には、曹操が兖州に君臨していたので袁術を頼ったともある(呂布伝の注に引く『典略』)。金尚はおそらく馬日磾とともに袁術のもとを訪れ、そこで曹操を武力排除すべく、袁術に兖州進攻を要請したのだろう。

袁術の軍事行動には、黒山賊匈奴の於扶羅の支援があったという。于毒は黒山賊の有力武将であった。冀州と兖州の二州における紛争の同時勃発は、偶然に起こったものではない。袁紹曹操とを互いに協力させないようにとの考えから、黒山賊らが仲介役となり、おそらく二州同時を狙って計画的に起こされたものである。


ただし、二袁の関係はこのとき初めて決裂したのではない。初平二年冬の界橋の戦いに先だって、すでに公孫瓚は「袁紹の部将が、予州刺史孫堅の官位を横取りした」と言っている。これが二袁抗争の端緒だろう。公孫瓚と袁紹はその後、龍湊でも戦っている。龍湊は平原の近くにあり、武帝紀ではこの戦いについて、初平三年、公孫瓚が劉備を平原、単経を高唐、陶謙を発干に進駐させて袁紹を攻めたのは、袁術が公孫瓚に手を回したからだとしている。公孫瓚はこの戦いに敗れて幽州に引きこもり、そこへ趙岐の和解勧告が伝えられたのである。

なお、馬日磾は袁術にしたがって揚州へ下り、そこで孫策を招いて懐義校尉に推挙している。袁術伝の注に引く『献帝春秋』では袁術に無理強いされたとしているが、孫策伝では、馬日磾がみずからの意志で推挙したように書かれている。


参考:http://d.hatena.ne.jp/mujin/20091026/p1

あ、前のエントリも修正したよー。