劉表の部将 熊綏民

姓は熊、名は不詳。劉表のもとで綏民校尉、曲江の県長を兼務し、建安二十一年(216年)に亡くなる。


出所は『隷釈』巻十一に載せる「綏民校尉熊君碑」。

 君諱■字子■其先蓋帝顓頊高陽氏之苗裔。周有天下。成王建國。熊繹封楚。慶祚■■■於■■亦世載德卅餘代。君高祖父籌自汝南吳■■■■■子靈王玄孫。大漢龍興。■舉鄉■拜議郎。南巡郡國。封龍平■■■祖父旻。舉■■■大司馬郊隧■曾祖父範。督郵守長。州辟元■■■■■■君■■■■應上計■祖父師■■上計掾君■喬字漢舉。更督郵、主簿、五官■■三奏辟。頙志皓首。不肯應就。君立迹唯仁。與■■■■■■■■■■祖父■■治歐羊尚書。六日七分。少仕州郡。臨朝謇鄂。孔甫之操。以忠孝稱。更諸曹■■賊曹主記史、督郵、主簿、五官功曹、州■■■■■■■■舉孝廉上計掾。興平元年八月二十八日王寅。詔書除補桂陽曲紅長。既敦文武。為政果達。臨化宣惠。所云遺績。視事六載。荊■■■■■■■■奔■掩迫之害。罹災致寇。■郡潰亂。鎮南將軍荊州牧侯山陽劉君諱表字景升。以君稟純履正。出自帝宇。緬榮輕舉。厲志疾邪。牧侯■美■為民所安。命還拜綏民校尉。領曲紅長。復蒞五年政隆上古。流移歸懷。襁負而至。吏民作誦曰。彼熊父兮。解我患害。安我■移遭母憂■■去官。陽九應會。王室威■君功顯宿著。海內諮美。拜騎都尉。受命立灌陽縣。督長六載。無為而治。稽則先民。■■附害無怨曠聲。君春秋七十有一。以廿一年三月廿七日丙寅卒官。吏民懷慕。官屬五徒黃郭■■奚湯■扶送靈■哀如彫傷。顧見農夫。泣涙路堣。皆懷悽愴。哀我惠君。君同產弟望季公。質性忼慨。史魚之直。吏功曹列掾、督郵、都梁長。早終。君長子稱孝存姿操敦良。耽志好學。博覽雅藝。■■曹列■三奏辟召於州終。昔周文公作頌。宋成考父。公子奚斯。追羨遺績。紀述前勳。於是刊碑。以示後緄。其祠曰。
 赫赫熊君。遷基■宇漢興伐項。巡行南土。顯封受爵。遂爾延祖。絫葉休隆。君胤其緒。克明盛德。字牧城社。所在有績。龜銀之祚。河雒挺錄。為國毗輔。懿懿其操。穆穆其姿。光光其行。桓桓其威。清虛澹泊。後嗣式序。冠秩之應。實賴厥後。昊天忽然。枕榮終祐。喪我良則。國失良輔。其存也榮。其亡也哀。銘勒金石。沒而不朽。靈也有知。祐福子孫。支干相生。吉而無咎。詩云。嘉樂君子。顯顯令德。延于無極。
 追敘君兮懷純精。名稱於州里兮樞機發動。執忠貞兮溷亂而不惑。不柱身事汗君兮。捐土爵而進退。崇禮約行兮。舉動而不跌。遭濁而自靖兮。泥而不滓穢烏呼君兮。匪石是為州郡禮遇兮。名貫於四表。德稱並宣兮。賢比於前列邵畢之歎岐兮束脩稷由文武兮興後葉。子孫殖兮世享祿龍潛軆於枯木兮就生存是以刊石兮為君立碑。攬瑛雄之迹兮以■來喆。嗣長基而廣宇兮後世無廢違。
 故長沙荼陵長文春字季秋。質操貞良慈仁汜愛。治天官、日度風角、列宿。明知聖術。在官脩德。民歌遺風。春秋七十。以道殞遷。宗胤不紀。故為宣昭。
 故桂陽陰山豫章■長重安侯相杜暉字慈明。軆質弘亮。敦仁好道。治易梁丘春秋公羊氏。綜覽百家。無所不甄。典歷三城。居官清惠。遺愛在民。春秋六十終。族後■術故因顯德。以示來胤。
 建安廿一年十■月丙寅朔一日丙寅大歲丙申。碑師舂陵程福造。

 君は諱を■、字を子■という。その祖先はおそらく帝顓頊高陽氏の末裔であろう。周が天下を領有したとき、成王は国を建てて熊繹を楚に封じた。めでたき運命は■■において■■■、代々にわたり徳を重ねること三十代あまりになった。君の高祖父の熊籌は汝南呉■(房)から■■■■子霊王の玄孫。大漢が興隆すると、郷■に■挙され、議郎を拝命した。南方へ郡国を巡り、龍平■に封ぜられた。■■祖父の熊旻は■■に推挙され、大司馬を■、郊隧は■。曾祖父の熊範は督郵として県長を監視した。州が招聘して元■■■■■■君■■■■応じて上計■。祖父の熊師は■■上計掾。君の■(父)の熊喬は字を漢挙といい、督郵、主簿、五官■■を歴任、みたび上奏を受けて招聘されたが、志を正して頭髪が白くなっても、お召しに応ずることを承諾しなかった。君の行動はひたすら仁を心がけ、■■■■■■■■■とともに祖父の■■に■、欧羊(欧陽)の尚書、六日七分(天候観測)を治めた。若くして州郡に出仕し、朝会に臨んでは正論を貫き、孔甫(宋の孔父嘉)の節操があった。忠孝をもって称賛され、もろもろの曹の■■、賊曹主記史、督郵、主簿、五官功曹を歴任、州は■■■■■■■■、孝廉に推挙されて上計掾なった。興平元年(194年)八月二十八日王寅(壬寅)、詔勅により桂陽郡の曲紅(曲江)の県長に任命された。もともと文武に通じていたので、政務にあたると通達ぶりを発揮し、教育ぶりでは恩恵を明らかにした。いわゆる遺績(?)というものであった。職務を司ること六年、荊■(州)の■■■■■■■奔、脅迫の被害に■、災害に遭って盗賊行為をなし、郡を■して壊乱した。鎮南将軍で荊州牧侯である山陽の劉君、諱表、字景升は、君の純粋正直さと、帝の領域の出自であり、名誉を遠ざけて妄動を軽んじ、志を励まして邪悪を憎むことから、牧侯(劉表)は■が民衆を安心させていることを■美し、呼びかえして綏民校尉に任命し、曲紅の県長を兼務させた。さらに在職すること五年間、政治の興隆は古代以上であり、流民は帰郷するように懐き、むつきを背負って到来した。官吏民衆は「かの熊父どのが我らの悩みを解消してくれる。我らの■移を安泰にしてくれる」と歌を作った。母の不幸に遭って■■官職を去った。陽九(わざわい)は重なり、王室の権威は■した。君の功績はつとに明らかであり、海内が美徳を取りざたしたので、騎都尉を拝命した。命令を受けて灌陽県が創設され、県長を務めること六年、何もせずとも治まり、政務は民衆を優先した。■■危害を附して怨むことなく、名声は広大であった。君は七十一歳のとき、(建安)二十一年(216年)三月二十七日の丙寅、在職のまま亡くなった。官吏民衆は慕い懐かしみ、官属の五徒、黄郭■■奚湯■は霊■をかついで運び、哀しみは切り傷を負ったよう、振りかえって農夫を見れば、道ばたで涙を流して泣いており、みな悽愴な気持ちを抱いていた。哀しいかな、わが恵君どの。君の同母弟である望季公は、性質は慷慨、史魚のような正直さであった。功曹列掾、督郵、都梁の県長を務めたが、早くに亡くなった。君の長子は孝行者として評判であり、行動は真心がこもり真面目であった。志を深めて学問を好み、雅芸を幅広くたしなんだ。■曹列■を■し、みたび上奏を受けて招聘されたが、州内で亡くなった。むかし周の文公は頌を作り、宋の成考父、公子奚斯は、業績を追慕して以前の功績を記述した。そこで石碑に刻んで子孫に示そう。その詞に言う。

 赫赫熊君。遷基■宇漢興伐項。巡行南土。顯封受爵。遂爾延祖。絫葉休隆。君胤其緒。克明盛德。字牧城社。所在有績。龜銀之祚。河雒挺錄。為國毗輔。懿懿其操。穆穆其姿。光光其行。桓桓其威。清虛澹泊。後嗣式序。冠秩之應。實賴厥後。昊天忽然。枕榮終祐。喪我良則。國失良輔。其存也榮。其亡也哀。銘勒金石。沒而不朽。靈也有知。祐福子孫。支干相生。吉而無咎。詩云。嘉樂君子。顯顯令德。延于無極。
 追敘君兮懷純精。名稱於州里兮樞機發動。執忠貞兮溷亂而不惑。不柱身事汗君兮。捐土爵而進退。崇禮約行兮。舉動而不跌。遭濁而自靖兮。泥而不滓穢烏呼君兮。匪石是為州郡禮遇兮。名貫於四表。德稱並宣兮。賢比於前列邵畢之歎岐兮束脩稷由文武兮興後葉。子孫殖兮世享祿龍潛軆於枯木兮就生存是以刊石兮為君立碑。攬瑛雄之迹兮以■來喆。嗣長基而廣宇兮後世無廢違。

 元の長沙郡の茶陵の県長である文春は、字を季秋といい、忠実謹厳、仁慈博愛の人であった。天官、日度風角、列宿を治め、聖術に精通していた。官職にあっては仁徳を修め、民衆は遺風を歌にした。七十歳のとき、道半ばにして亡くなり、子孫は記録されていない。そこで表彰することとする。

 元の桂陽郡の陰山、予章郡の■の県長、重安侯の相である杜暉は、字を慈明といい、明瞭闊達な人であり、仁にあつく道義を好んだ。易は梁丘氏、春秋は公羊伝を治め、百家を総合的に学び、知らないことはなかった。つぎつぎに三つの城を監督し、官職にあっては清廉で恩恵があり、愛情は民衆に注がれた。六十歳で亡くなり、親族の若手は術が■。そこで仁徳を顕彰し、来るべき子孫に示す。

 建安二十一年十■(二)月丙寅、朔一日丙寅、大歳丙申。舂陵の碑師の程福が造る。

碑に曲紅とあるが『漢書』地理志、『後漢書』郡国志は「曲江」とし、水流が屈曲するからという。しかし『水経注』では曲紅山の名にちなむとあり、どちらが正しいのか分からない。
曲江の在職中に盗賊の被害に遭ったというのは、長沙太守の張羨の反乱を指す。ただし興平元年から足かけ六年後は建安四年(199年)にあたるが『後漢書劉表伝では張羨の挙兵を同三年としており、年紀のずれがある。
「陽九が重なった」とはおそらく劉表が逝去したことを指す(あるいは父かも知れないが)。そこで中央官界から新たな任命があり、騎都尉に転任しているのであろう。碑題が最終官職の騎都尉ではなく綏民校尉とあるのは、劉表時代の曲江県の故吏が碑を建てたからだろう。
灌陽県は『後漢書』郡国志に記載はなく、おそらくこのとき初めて創設されたもの。『晋書』地理志によると零陵郡に観陽県ありという。洪适は、劉表は勤王の志がなく勝手に灌陽県を創始したと非難しているが、設立は劉表の没後なので見当違いである。
熊綏民のほか、文春、杜暉が同碑で顕彰されているのは、同郷の出身だからだろう。それぞれの任地も長沙、零陵、桂陽の境界上にある。
詞中の最後のゲタは字書に記載がなかった文字。上に「日」、下に「卒」または「平」。*1

古今図書集成

『古今図書集成』に『万姓統譜』の引用として、漢代から「熊喬」「熊尚」という二人の名が収録されている。

http://140.128.103.128/chinesebookweb/home/page.asp?imgPg=3430021
熊喬 案萬姓統譜,喬字伯峯,舂陵人。初平中,辟為曲江長。雍容莅事,聽覽如流。詔拜騎都尉。
熊尚 案萬姓統譜,尚零陵人。拜綏民校尉,又領曲江。居五年,去官。尋詔拜騎都尉。

が、どちらも誤っている。「喬」というのは綏民の父であり、これは欧陽脩の誤解を継承している。「伯」はどうしてそう読んだのか分からないが「漢」の誤り。「峯」は字形の相似からくる「舉」の誤り。「初平」は「興平」の読み間違い。

「尚」は字形の相似からくる「喬」の誤りで、じつは熊喬と同一人物。いずれも零陵の人としているのは(舂陵は零陵に属す)、碑が建てられた場所が同郡であって、碑文中でも碑師が舂陵の人と書かれているからだろう。

*1:解決しました。→コメント欄