車上の孔明

まずはこちらをご覧ください。

前漢司馬遷史記
魏の龐涓(ほうけん)は麾下の歩兵を残し、精鋭騎兵だけを連れて昼夜兼行で追撃した。斉の孫臏(そんぴん)はその行軍速度ならば日暮れ時に馬陵(ばりょう)まで来るだろうと予測した。馬陵は道が狭いうえに両側は絶壁が迫っており、伏兵するには適していた。そこで大きな樹木を削って白い肌を出し、そこに「龐涓、この樹の下に死す」と書いた。そして射撃の得意な者たちを一万張の弩でもって道の両側に伏せさせ、「日暮れ時に火を見たら一斉発射せよ」と言い付けた。龐涓は果たして夜中に木の下まで来ると、字が書かれているのに気付き、火を起こしてそれを照らした。その文字をまだ読み終わらないうちに、一万張の弩が一斉に放たれ、龐涓は自分の智力が尽き果てたことを悟り、「小僧に名声をなさしめたか!」と言って自刃した。

はい、孫臏が龐涓を射殺したチョー有名なエピソードですね。
つづいてこちらをご覧ください。

東晋・袁希之『漢表伝』
丞相諸葛亮が軍勢を催して祁連山を包囲し、初めて木牛を用いて軍糧を運送した。魏の司馬宣王・張郃が祁連山を救援した。夏六月、諸葛亮は軍糧が底を突いたので軍勢を引き揚げ、青封の木門まで帰った。張郃がそれを追撃する。諸葛亮は軍勢をとどめ、樹皮を削って「張郃、この樹の下に死す」と書き、あらかじめ兵士たちに道を挟んで数千張の強弩で待ち受けるよう命じた。張郃が果たしてそれを見たとき、一千張の強弩が一斉に放たれ、張郃は射殺された。

うわ!なんですか、これ!

どう見てもパクリです。本当にありがとうございました。…じゃなくて!

私がなにを言いたいのか、もうお分かりですよね。『三国演義』の孔明が車に乗ってるのは、孫臏のイメージが重ねられているからなのだということです(孫臏は龐涓の陰謀によって両脚を切断された)。

おそらく、孔明の死後、彼はさまざまな人々の手によって英雄化、神格化されてきた。その過程で、古今東西の英雄のエピソードがみな孔明のものとして取り込まれたと思われます。上に紹介した『漢表伝』もその一つを伝えたものなのでしょう。さすがにあからさますぎると思ったのか、『演義』でも樹下に張郃を殺すエピソードは採用されませんでしたが、孔明をわざわざ車に乗せることによって、車上の天才軍略家の残像が重ね合わされているのです。

人気blogランキング