陳羣

陳羣劉備の徐州入りに反対したのは袁術へのご機嫌取りだったのではないか?
もともと徐州牧陶謙袁術に近い立場だったが、劉備はその後任として麋竺らに招かれたあと、袁紹に与して袁術と抗争している。

この徐州勢力の袁紹への接近が、もしかしたら陶謙存命時から麋竺らによって予定されていた可能性はないか?陶謙自身がそれを承認していたかどうかは知らないが、王朗や趙昱を外部へ出向させたのも何か関連がありそうな気がする。

劉備が予州刺史だったころ、その実効支配は小沛付近に限られていたにも関わらず、はるか遠く潁川郡から陳羣を別駕に招いている。陳氏は当時の名家だったから袁紹系の予州刺史が彼を招聘しなかったはずがないのに、陳羣が実際に出仕したのは劉備の元へだった。当初、劉備袁術シンパとして振る舞っていたので、これは陳羣もまた袁術シンパだったことを推測させる。

麋竺らが劉備を招来したとき、陳羣は、徐州勢力が袁術から袁紹へと鞍替えしようとしていること、劉備が徐州を得たうえで独立しようと野心を抱いていることを見抜いたのではないか。そこで、本家筋の袁術のために取り計らい、劉備の徐州入りにけちを付けた可能性は大いにありうると思う。

結局、劉備袁術とそのシンパである呂布に前後から挟み撃たれて敗走してしまうのだが、陳羣はこのあと呂布に身を寄せている。劉備への進言では袁術呂布を警戒しているような口ぶりだが、実際には呂布のお膝元へ移住しているのは、やはり彼の本音では袁術呂布に親しい気持ちを抱いていたからではないのか。

ちなみに私が書いてることの半分は嘘と思い込みで出来ています。