官渡戦の史実歪曲

なぜか『三国志』その他の史料が、袁紹は機を見ても行動できない鈍重な人物として描こうとしている。

三国志武帝

(原文)五年春正月,董承等謀泄,皆伏誅.公將自東征備,諸將皆曰:「與公爭天下者,袁紹也.今紹方來而棄之東,紹乘人後,若何?」公曰:「夫劉備,人傑也,今不撃,必為後患.袁紹雖有大志,而見事遲,必不動也.」郭嘉亦勸公,遂東撃備,破之,生禽其將夏侯博.備走奔紹,獲其妻子.備將關羽屯下邳,復進攻之,羽降.昌豨叛為備,又攻破之.公還官渡,紹卒不出.

(訳文)(建安)五年の春、正月。董承らの計画が露見し、みな処刑された。公(曹操)はじきじきに東進して劉備を征討しようとした。諸将はみな言った。「公と天下を争っているのは袁紹です。いま袁紹が来ようとしているのに、それを無視して東進されるとは。袁紹が背後を突いてきたら、いかがなされるおつもりですか?」公は言った。「劉備は英傑である。いま攻撃せねばきっと後日の患いとなろう。袁紹は野心が大きいばかりで情勢を見るのが鈍く、きっと動きはしないだろう。」郭嘉もまた公に勧めたので、そのまま東進して劉備を攻撃し、これを破り、その部将夏侯博を生け捕りにした。劉備袁紹のもとへ逃れたが、その妻子を捕らえた。劉備の部将関羽が下邳に駐屯していたので、さらに進撃してこれを攻撃すると、関羽は降服した。昌豨もまた劉備に荷担して叛逆したので、さらにこれを攻撃して破った。公は官渡に戻ってきたが、袁紹は結局、出てこなかった。

三国志郭嘉伝注引『傅子』

(原文)太祖欲速征劉備,議者懼軍出,袁紹撃其後,進不得戰而退失所據.語在武紀.太祖疑,以問嘉.嘉勸太祖曰:「紹性遲而多疑,來必不速.備新起,衆心未附,急撃之必敗.此存亡之機,不可失也.」太祖曰:「善.」遂東征備.備敗奔紹,紹果不出.

(訳文)太祖(曹操)は速やかに劉備を征討したく思っていたが、論者たちは、軍勢を出せば袁紹がその背後に襲いかかり、進軍するにも戦うことができず、撤退するにも根拠を失うであろうと心配した。『武帝紀』に記述がある。太祖はためらい、それを郭嘉に尋ねた。郭嘉は太祖に勧めて言った。「袁紹は生まれつき鈍重でためらいが多く、来るのはきっと速くないでしょう。劉備は挙兵したばかりで、兵士たちの気持ちもまだつかんでいません。断固として戦えばかならず破ることができます。これこそ存亡の機会です。逃してはなりませんぞ。」太祖は言った。「素晴らしい。」こうして東進して劉備を征討した。劉備は敗れて袁紹のもとへ逃れ、袁紹は結局、出てこなかった。

三国志袁紹

(原文)先是,太祖遣劉備詣徐州拒袁術.術死,備殺刺史車胄,引軍屯沛.紹遣騎佐之.太祖遣劉岱、王忠撃之,不克.建安五年,太祖自東征備.田豐説紹襲太祖後,紹辭以子疾,不許,豐舉杖撃地曰:「夫遭難遇之機,而以嬰兒之病失其會,惜哉!」太祖至,撃破備;備奔紹.

(訳文)それ以前、太祖は劉備を徐州へ派遣して袁術を防がせた。袁術が死ぬと、劉備は刺史の車胄を殺し、軍勢を率いて沛に駐屯した。袁紹が騎兵を派遣してこれを支援した。太祖は劉岱・王忠を派遣してこれを攻撃させたが、勝つことができなかった。建安五年、太祖がじきじきに東進して劉備を征討したので、田豊は太祖の背後を襲撃すべきと袁紹を説得した。袁紹は息子の病気を口実に拒絶し、許可を出さなかった。田豊は杖を振りあげて地面に叩き付け、「滅多にない機会に出くわしているのだ。それなのに赤子の病気くらいでその機会を逃すとは、残念なことだ!」太祖は到着すると劉備を撃破し、劉備袁紹のもとへ逃れた。

後漢書袁紹

(原文)五年,左將軍劉備殺徐州刺史車胄,據沛以背曹操.操懼,乃自將征備.田豐説紹曰:「與公爭天下者,曹操也.操今東撃劉備,兵連未可卒解,今舉軍而襲其後,可一往而定.兵以幾動,斯其時也.」紹辭以子疾,未得行.豐舉杖撃地曰:「嗟乎,事去矣!夫遭難遇之幾,而以嬰兒病失其會,惜哉!」紹聞而怒之,從此遂疏焉.

(訳文)建安五年、左将軍の劉備が徐州刺史の車胄を殺し、沛を占拠して曹操に背いた。曹操は恐怖し、そこでみずから劉備を征討しようとした。田豊袁紹を説得した。「公と天下を争っているのは曹操です。曹操はいま東進して劉備を攻撃しており、戦いが続いてすぐには停戦できません。いま全軍をこぞってその背後を襲撃すれば、一挙に片を付けることができます。兵事は機会を見て行動するもの。いまがその時です。」袁紹は息子の病気を口実に拒絶し、なかなか出ようとしなかった。田豊は杖を振りあげて地面に叩き付け、「ああ、計画は破れた。滅多にない機会に出くわしているのだ。それなのに赤子の病気くらいでその機会を逃すとは、残念なことだ!」袁紹はそれを聞いて腹を立て、以来、かれを疎んずるようになった。

いずれを見ても一様に、袁紹は出兵しなかったとしている。*1そして、それを見抜いた曹操郭嘉を賛美し、袁紹の失敗を予測した田豊を賛美している。すべて袁紹が行動を起こさなかったことを前提として下された評価である。しかしその前提はとんだ嘘っぱちなのだ。

後漢紀』

(原文)春正月壬午,車騎將軍董承、偏將軍王服謀殺曹操,發覺伏誅。

(訳文)春正月の壬午、車騎将軍の董承、偏将軍の王服が曹操を殺そうと計画していたが、発覚して処刑された。

三国志武帝

(原文)二月,紹遣郭圖﹑淳于瓊﹑顏良攻東郡太守劉延于白馬,紹引兵至黎陽,將渡河.夏四月,公北救延.

(訳文)二月、袁紹は郭図・淳于瓊・顔良を白馬へ派遣して東郡太守の劉延を攻撃させ、袁紹は軍勢を率いて黎陽に着陣、黄河を渡ろうとした。夏四月、公は北進して劉延を救援した。

曹操劉備征討の軍を起こしたのは董承誅殺の後であるから、建安五年の正月中のことである。それから劉備を追い、関羽を下し、昌豨を破り、白馬に戻ってきたのが四月のこと。それまで三ヶ月もかかっている。袁紹は、その間の二月に白馬を攻撃しているのだ。いったい、どこに「袁紹は出兵しなかった」という事実があろう? すべて曹操郭嘉田豊を美化するための事実の歪曲なのである。

このようなでたらめが「武帝紀」に書かれる一方、反証となる事実もまた「武帝紀」に書かれている。注意ぶかい読者ならば決して惑わされることはないだろうが、一つの史料に相互矛盾する記述がなされているところに病的な性質がある。連敗を重ねて戦線を後退せざるをえなかった事実は明らかなのに、あたかも緒戦に優勢であったかのごとく見せかけたりするなど、とりわけ「武帝紀」の官渡戦の記述は、事実の率直な記録と、これに対する評価との間に、まったく度しがたい分断がある。曹操をとかく美化したい要求のある『三国志』だけならばいざしらず、直接的には利害のないはずの『後漢書』や『後漢紀』もがこれに追随する理由がまったく分からない。

*1:「公と天下を争っているのは…」の発言者が異なっているが。