音訓の区別は案外むつかしい

近ごろの大学生は漢字の音読みと訓読みの区別もできんのだ、という批判をどっかのブログで見かけた。今まで考えたことはなかったけど、この両者の区別って案外むつかしいんじゃないかなと思った。


そのせいか、【教えて!goo】にも複数の質問が出されていた。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2185500.html
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2875174.html

どちらのページでも「意味が分かるのが訓、分からなければ音と教えられた」と言う人がいて腰を抜かした。教育の現場ではそう教えているらしい。でも、これはさすがにまずいだろう。訓でも意味が分からないかもしれないし、音でも意味が分かるかもしれない。わたしは「潦(にわたずみ)」と聞いても意味が分からないがこれは音だろうか。「茶(ちゃ)」や「鉄(てつ)」は理解できるがこれは訓だろうか。もちろん、そうではない。「田」を訓読みしても「他」を音読みしても同じ音なんだから、これでは区別にならない。あまりうまい説明の仕方ではないと思う。

「送りがなを必要とするのが訓」という説明もされている。活用することを言うのだろう。しかし「山(やま)」は名詞であり活用しないから送りがなを用いない。末尾に「フクツキチ(クキツチイウン)が付けば音」という説明もされている。「松(まつ)」は音だろうか。もちろん、そうではない。これらもうまい説明ではない。


では、どのように区別すればよいのか。いま少し考えてみたんだけど、結局、漢字の一つ一つについて全て暗記するほか方法はないんじゃないか、という疑念すら湧いてくる。音のほうは中国音の転訛だからある程度の法則性はあるが、訓のほうで法則性が見いだせない。なかには音を取りいれたらしい訓もある。

旧官名で「尉」と書いて「じょう」と読ませる例がある。これは同じく官名の「丞」から音と意味の両方を借りてきたらしい。音の仮借といったところ。旧官名の「属」を「さかん」と読むのも「左官」からの転用だ。中国音に由来しているとはいえ、字と読みの対応関係が切られているわけだから、これらは訓とすべきだろう。

中国の書籍に『廿二史箚記』というものがあって、日本では「にじゅうにしさっき」と読まれることが多いが、「廿」を「にじゅう」と読むのは音と言えるのだろうか。同じ意味の「二十」から読みだけを借りてきているのだ。これも中国音に由来しながら字と読みの対応を失っている。「にじゅう」は訓とせざるをえない。

「絵」の音は「かい」というが、訓は何だろうか。おそらく教養のある大人でもほとんどの人が「え」と読んでしまうんじゃないだろうか。しかし「え」は唐音で読んだもので音である。この「え」は「画」の読みにもあてられている。もとは「絵」の音なのに「画」の訓のように扱われている。さらに「かく」と結合して「えがく」という言葉さえ作られていて、「描く」は前半の「え」が中国音に由来し、後半の「かく」が大和言葉に由来する、複合的な読み方になっている。一つの字のなかで重箱読みをやっているわけだ。

以上は音を別の字の訓として使っている例。


「三」は音で「さん」と読まれることが多い。人名や地名に使われて「さぶ」などと読まれることもあるが、これは「さん」の転訛したもので音とすべきだろう。末尾に「ふ」が付いているがフクツキチの法則が想定する意味での「ふ」とは違っている。しかし、それでも音には違いない。

「博士」を「はかせ」と読むのはどうだろう。中国音の転訛だから音だろう。しかし、またもフクチキチの法則が崩れている。

以上は通常の法則からは類推しにくい音の例。


「服喪」という言葉がある。漢語の文法で読めば「喪(も)に服す」となる。漢語のふりをしているが、しかし「も」は訓である。「喪失」という言葉もあるから分かっている人には音が「そう」であると分かっている。しかし「喪中」にしろ「喪服」にしろあたかも音のような顔をしている。ほとんどの熟語で重箱読み湯桶読みだけで読まれている不思議な字だ。

「朝刊」といえば朝方に受けとる新聞だ。では夕方に受けとる新聞はなんだろうか。これが「せきかん」ではなく、なぜか湯桶読みで「ゆうかん」だ。ここでも「夕」を音のように読んでいて、きちんと音で読んでいる朝刊との対応関係が取れていない。

以上は音のように使われている訓の例。


音と訓との区別、境界は思いのほか曖昧だ。これを区別する方法はないのではないか。

やはり漢字を一つづつ全部まるごと暗記するしかないようだ。