黎陽謁者

後漢書』百官志に引く応劭『漢官儀』
(原文)監察黎陽謁者,世祖以幽、并州兵騎定天下,故於黎陽立營,以謁者監之,兵騎千人,復除甚重.謁者任輕,多放情態,順帝改用公解府掾有清名威重者,遷超牧守焉.
(訳文)監察黎陽謁者とは、世祖が幽州・幷州の騎兵でもって天下を平定したことから、黎陽に陣営を築いて謁者に監督させたもので、騎兵は千人、免税措置は非常に手厚いものだった。謁者の任務は軽く、成り行きに任せることが多かったので、順帝は解体された公府の掾のうち、清廉と威厳で知られる者を改めて任用し、地位を牧や太守の上とした。

黎陽営は、河北の精兵が光武帝を助けたという歴史的背景にもとづく権威もあり、黄河の渡し場でもある地勢上の要地でもあり、さらに厳重な要塞化がされていたと考えられるので、後漢時代を通じて非常に重要な軍事組織であったと思われる。また、黎陽営に所属の部隊が、しばしば北軍五校や三輔選抜の兵士らとともに北方の防備に出向いていることが確認できる。

三国志』司馬朗伝
(原文)謂父老曰;「此乃四分五裂戰爭之地,難以自安,不如及道路尚通,舉宗東到黎陽.黎陽有營兵,趙威孫鄉里舊婚,為監營謁者,統兵馬,足以為主.」
(訳文)父老に向かって言った。「ここは四分五裂の戦争の地であり、身をたもつのは困難です。道路がまだ通じているうちに一族こぞって東のかた黎陽へ行くに越したことはありません。黎陽には黎陽営の兵士がおり、趙威孫は郷里で昔から姻戚関係があり、監営謁者として兵馬を統括しています。主君と仰ぐには充分です。」

董卓が政権を掌握したとき、司馬朗と同郷者であり代々にわたり婚姻関係を結んできた趙威孫が、このとき黎陽謁者であった。ただし、すぐ後で任地替えがあったらしく、次に見えるように謁者の姓名は耿祉となっている。

三国志張楊
(原文)山東兵起,欲誅卓.袁紹至河內,楊與紹合,復與匈奴單于於夫羅屯漳水.單于欲叛,紹﹑楊不從.單于執楊與俱去,紹使將麴義追擊於鄴南,破之.單于執楊至黎陽,攻破度遼將軍耿祉軍,眾復振.
(訳文)山東の軍兵が決起して董卓を誅伐せんとし、袁紹が河内に到来した。張楊袁紹に合流し、改めて匈奴単于の於扶羅とともに漳水に駐屯した。単于は寝返ろうとしたが、袁紹張楊が同調しなかったので、単于張楊を拘束して連れ去った。袁紹は部将の麴義に命じて鄴城の南へ追撃させ、これを打ち破った。単于張楊を拘束して黎陽へ行き、度遼将軍耿祉の軍勢を攻め破り、勢力を盛り返した。

この度遼将軍耿祉というのは建国の功臣である耿純の子孫であるかもしれないが、おそらくこのとき黎陽謁者を兼任して北伐に備えていたのだろう。そこへ匈奴単于の襲撃をうけて河北の精鋭部隊を奪われたということである。単于が勢力を盛り返したというのは、黎陽の精鋭騎兵を掌中におさめたことを指していると思われる。