董奉1

【キョーリン製薬】のトップページ「杏林伝説」から。

古代中国―――。
貧しい患者からは治療費の代わりに杏の苗を受け取ったという伝説の名医・董奉。
日ごとに増える杏の木は、やがて大きな林となり、生命を慈しむ董奉の心も人々の間に広がっていきました。
「杏林」の名は、まさにこの心から生まれたものです。
人を救うのは人の力、人の心。
科学がどんなに進歩しても健康への願いが変わることはありません。
〈健康はキョーリンの願いです〉

以前、掲示板でも話題に上りましたが、この董奉という医者は『三国志』の裴注にも登場します。

葛洪の『神仙伝』に言う。
士燮が病死して三日後、仙人の董奉が丸薬を一つ与え、水と一緒に飲み込ませ、彼の頭をつかんで揺さぶった。数十分すると、すぐ目を開いて手を動かし、顔色もだんだんとよくなってきた。半日で立ったり座ったりできるようになり、四日でしゃべることができるようになり、とうとう全快してしまった。
董奉の字は君異といい、侯官の人である。

董奉については『太平広記』という本にいろいろと書いてあります。ざっと訳してみます。ただし、私の漢文読解能力はあてにできないのでそのつもりで。

ある若者が候官の県長となった。当時40歳過ぎの董奉に会ったが、彼が道術を心得ていることを知らないまま、他の官職へ異動になった。五十年以上が経ち、候官に立ち寄る機会があったので、かつての部下たちに会うとみんなすっかり老人になっていた。しかし董奉だけは昔のままである。「君は道術を会得したのかね。君はむかし私が見たまんまの姿だ。私はもうすっかり白髪頭なのに、君はそれどころか若々しくなっている。なぜだろう?」董奉は答えた。「偶然でしょうな。」

士燮は交州刺史となり、毒にあたって病死した。死んでから三日後、董奉は彼のもとにいたので、出かけて行って丸薬を三つ与え、口に含ませてから水を注いだ。彼の頭を持ち上げるよう人に命じ、薬を効かせるため揺さぶらせた。しばらくして手足が動くようになり、顔色もだんだん回復してきた。半日で立ったり座ったりできるようになり、四日後にしゃべれるようになった。士燮は語った。「死んだらぼんやりと夢の中にいるようだった。十数人の黒服の者たちがやってきて、私を車に乗せて出発した。大きな赤い門をくぐり抜けると、まっすぐ牢獄に到着した。牢屋にはそれぞれ入口が一つづつあって、ちょうど人間一人が通るくらいの大きさだ。私はそのうちの一つに入れられ、外から土でもって塞がれた。もう外の光は見えなくなってしまった。ふと入口の外から人の声が聞こえ、『太乙が使者を遣して士燮をお呼びだ』と言っていた。入口の土をどける音が聞こえ、しばらくしてから外へ引き出された。赤い傘付きの車馬があって、その車上には三人が座っていた。一人は節(はた)を持っていて『車に乗るように』と私を呼んだ。来た道を引き返して門まで来たところで目が覚め、そうして私は生き返ったのだ。」そこで立ち上がって感謝した。「とてつもないご恩をこうむった。どうすれば恩返しできるだろうか。」董奉は干し肉と棗(なつめ)以外は食べず、酒も少ししか飲まなかった。士燮は毎日三度、それを用意した。董奉がそれを食べに来るとき、まるで鳥の飛ぶように空から舞い降りて座り、そこで食べ終えると飛び去った。人々はいつも気付かないのであった。このようにして一年が過ぎたころ、董奉は士燮に別れを告げた。士燮は涙を流しながら「行かないでくれ」と訴え、ここに残ってくれるために何か必要なものはあるか、大船はいらないかと訊ねた。董奉が「船はいりません。ただ棺桶があれば」と答えたので、士燮はすぐさまそれを取りそろえた。翌日の正午、董奉は死んだ。士燮はかの棺桶に納めて彼を埋葬した。七日後、董奉から言伝を頼まれたという人がやって来て、「士燮どのに感謝します。ご自愛くだされ」と伝えた。士燮がそれを聞いて棺桶を掘り返してみると、ただ、表に人間の姿を絵に描き、裏に赤い字で呪文を書いた一反の絹が出てきただけだった。

このあともまだまだ続きますが、長いので、いったんここで打ち切ります。

8月29日の追記

続きを書きました。