曹邵殺害事件

三国志』曹真伝注
(原文)魏書曰:邵以忠篤有才智,為太祖所親信.初平中,太祖興義兵,邵募徒衆,從太祖周旋.時豫州刺史黃琬欲害太祖,太祖避之而邵獨遇害.
(訳文)『魏書』に言う。曹邵は実直な人柄で才知があり、太祖に信愛された。初平年間、太祖が義勇軍を起こしたとき、曹邵が兵士を募集し、太祖に従って駆けずりまわった。そのころ予州刺史黄琬が太祖を殺害しようとしており、太祖はそれを回避したものの、曹邵だけが殺害されてしまったのである。

黄琬は永漢元年(一八九)九月、すでに予州牧から司徒に異動しており、ここで初平年間(一九〇〜一九四)と言ってるのは間違っている。『後漢紀』によると黄琬は予州牧のとき下軍校尉鮑鴻を処刑しており、それが中平六年(一八九)三月のことであるから、黄琬の予州牧就任はそれ以前である。ならば『魏書』にいう初平は中平の誤りなのであろうか。曹操都落ちしたのは董卓秉政後なので、すでに永漢と改元されていたはずだが、「武帝紀」では中平六年十二月に挙兵したとあり、史書では永漢をなかったこととしている。

三国志』曹真伝注
(原文)魏略曰:真本姓秦,養曹氏.或云其父伯南夙與太祖善.興平末,袁術部黨與太祖攻劫,太祖出,為寇所追,走入秦氏,伯南開門受之.寇問太祖所在,答云:「我是也.」遂害之.由此太祖思其功,故變其姓.
(訳文)『魏略』に言う。曹真は本姓を秦といい、曹氏に養われたのである。一説に言う。父の秦伯南は幼少のころより太祖と親密であった。興平年間の末期、袁術の部下が太祖を攻撃してきた。太祖は脱出したが、敵に追われて秦氏の邸宅に逃げこんだ。秦伯南が門を開いて迎えいれ、敵が太祖の居場所を尋ねると「おれがそうだ」と答え、その場で殺された。このことから太祖はその功績を思いおこし、かれの姓を変えたのである。

『魏書』の記載と総合すると、曹邵は本姓を秦、字を伯南といい、曹操の身代わりになって死んだということになる。相違点としては初平年間が興平年間(一九四〜一九六)になっていること、下手人が黄琬から袁術になっていることの二点。いずれが正しかろうか。興平年間ならば曹操袁術のあいだですでに敵対心があったから、袁術曹操を襲撃する動機は充分であるが、しかし兗州牧たる曹操が身一つで民家に逃げこむほど無防備であったとは考えにくい。興平が中平の誤りと見るにしても、そのころ両者のあいだに確執があったとも思われない。

後漢書』袁安伝
(原文)忠字正甫,與同郡范滂為友,俱證黨事得釋,語在滂傳.初平中,為沛相,乘葦車到官,以清亮稱.及天下大亂,忠棄官客會稽上虞.
(訳文)袁忠は字を正甫といい、同郡の范滂とは友人であり、党錮事件のとき庇いあって釈放された。記述は「范滂伝」にある。初平年間、沛国の相となり、葦車に乗って赴任し、清廉であると称賛された。天下が大いに乱れると、袁忠は官職を捨てて会稽上虞に仮住まいした。

三国志武帝紀注
(原文)初,袁忠為沛相,嘗欲以法治太祖,沛國桓邵亦輕之,及在兗州,陳留邊讓言議頗侵太祖,太祖殺讓,族其家,忠﹑邵俱避難交州,太祖遣使就太守士燮盡族之.
(訳文)むかし袁忠が沛国の相だったころ、法律でもって太祖を処罰しようとしたことがあった。沛国の桓邵もまた彼を軽蔑していた。(太祖が)兗州にいたとき、陳留の辺譲の言葉がたいそう太祖を傷付けるものであったので、太祖は辺譲を殺してその家族を皆殺しにした。袁忠・桓邵はともに交州に避難したが、太祖は太守の士燮に使者をやって彼らを皆殺しにさせた。

『魏略』で袁術と言っているのは、この袁忠のことではないだろうか。とすれば、袁忠が沛国の相になったのは初平年間であり、曹邵は二度殺されたことになってしまう。そもそも『魏書』でも事件を初平年間のこととしており、むしろ当時の予州刺史を黄琬としているのが間違っているのではないだろうか。

おそらく諸書が参照した記録にはもともと、初平年間または興平年間、予州刺史の命を受けて袁忠が曹操を処刑しようとし、曹操は逃げのびて曹邵が誤殺された、と書かれていて、それを『魏書』は予州刺史を黄琬と誤り、『魏略』は袁忠を袁術と誤ったのではないだろうか。しかし、いずれにせよ初平以降の曹操が身一つで追補を避けねばならぬほど無防備だったとは考えられず、真相はいまだよく分からない。