建康実録2
『建康実録』を読もう。その2。
- 黄武二年(二二三)正月、江夏に武昌宮を築城。
- 四月、丞相孫劭・大将軍陸遜らが帝位に就くよう勧めたが却下された。これ以降は『呉志』と年数が符合する。
- 三年九月、曹丕は徐盛の疑城をみて「天は我らを呉と魏とに分けたのだ。彼らは人物を手に入れている」と言い、撤退した。
- 孫韶が曹丕に強襲をかけたのは三年九月の役。『呉志』注では四年とする。
- 丞相孫劭の諡は「粛」。
- 顧雍が蔡邕と同名なのは蔡邕にあこがれていたから。
- 士燮が亡くなったのは黄武五年十一月。
- 士燮の次弟の名は士鮪。
- 韓当の子韓蒴が魏に走ったのは黄武六年正月。
- 三振アウト法の発布は七年十月。
- 呂範をみて「貧乏人で終わる人ではない」と言ったのは、劉氏の娘本人。
- 呂範は彭城太守。建安十四年にも見える。
- 呂範を大司馬に任ずるとともに南昌侯に封じた。
- 帝都を建業に移したのは「建業の水を飲むとも武昌の魚を食わず、建業で死ぬとも武昌に居らず」という童謡が流行ったから。
- 建業の太初宮はもともと孫策の役所。西門外の池は太子孫登が造ったもの。
- 張紘が亡くなったのは黄龍元年十一月。最終官位を右長史とするのは疑わしい。
- 張紘は享年六十一。
- 孫慮が亡くなったのは嘉禾元年(二三二)二月。
- 六月、孫登が武昌から建業へ行き、太子少傅是儀が侍中になる。
- 周賀・裴潜を遼東に派遣したのは嘉禾元年十月、翌年三月に斬られる。『呉志』および『魏志』明帝紀では元年三月に遼東へ行き、同年九月に田予に斬られたとする。おそらく『呉志』が正しい。
- 漢の献帝が崩御したとき、公卿とともに三日間の哀悼を捧げた。
- 秦旦らはみずから玄菟に逃げたとある。『呉志』では公孫淵により玄菟に軟禁されたことになっている。
- 句麗王は秦旦らを「天子のお側の人だ」と敬い、十月、謝宏らを介して単于号を賜った。
周賀の派遣された時期が一番大きな違いかな。孫韶の攻撃、孫劭の諡もとりあえず留意しておきましょう。