建康実録1
いま『建康実録』を読んでるんですが、これまでの『呉志』による理解が次々に崩されていくんですよね。
- 孫鍾は孫堅の父。
- 孫堅を殺したとき、黄祖はすでに江夏太守だったとされている。注に引く『孫堅別伝』も同じ。
- 孫策は袁術の上表により折衝校尉となり、興平元年(一九四)に廬江太守陸康を破り、翌年冬に殄寇将軍へ昇進。
- 孫策が渡江のため寿春を進発したのは興平二年十二月。
- 会稽で厳白虎を破り、白虎が許昭に身を寄せると、程普の要請を断ってまず東冶を屠り、そのあと降服した白虎を殺した。
- 裴松之が付した『呉志』討逆伝への注を素直に読むと、まず白虎を討つべきとする呉景の進言を退け、会稽東冶を屠ったのち引き返して白虎を破り、白虎が許昭に身を寄せたので見逃したように認められる。しかし『建康実録』では最初に白虎を討ったことになっている。これは裴松之が注文を挿入する場所を間違っているのかもしれない。『建康実録』の記述に従って順序を改めると、まず呉(会稽はおそらく誤り)で白虎を破り、白虎が許昭に身を寄せると、程普・呉景がその追討を要請するのを「許昭は旧友に誠実な人物だし、白虎は烏合の衆ゆえ手取りにするのはたやすい」と言って退け、会稽に転じて東冶を屠り、それから白虎が降服してきたので殺した、ということになりそうだ。裴注と『建康実録』のどちらが正しいのかは分からない。
- 孫策は内心、天下三分の計を抱いていた。
- 陳登が厳白虎の残党を使って孫策を暗殺させようとしたのは建安五年四月。
- 孫策を襲撃した許貢の食客の名は許昭。厳白虎を受け入れた許昭と同人か?孫策が傷付けられたのは顔面。
- 孫策が鏡をみて腹を立てたのは、顔に瘡ができていたから。
- 『呉志』の引用する『江表伝』では、孫権が四角い顎だったとあるが、『建康実録』の引用では広い額になっている。
- 『呉志』の引用する『江表伝』では「これらの諸君はお前(孫権)の将軍だぞ」、『建康実録』の引用では「こいつ(孫権)こそが本当に諸君の将軍だぞ」。
- 丹楊太守孫翊が殺されたのは建安十年(二〇五)。
- 太史慈は享年四十二。
- 孫堅の呉夫人が亡くなったのは建安十二年。こちらが正しく『呉志』本伝が間違っている。
- 董襲の声音は雷鳴のごとし。
- 赤壁は長江北岸にあり、周瑜は軽装の精鋭を率いてこの地で曹操軍を破った。
- 劉備を荊州牧に推挙したのは孫権。
- 孫権は劉備を見送ったとき「あなたとともに天子を迎え入れ、平和になれば海で一緒に船遊びをしたいものです」と言い、劉備は「それは私の願いでもあります」と答えた。
- 注に引く『劉備伝』にいう。劉備は「孫車騎精爽周贍」と告げて昼夜兼行で公安に向かった。『蜀志』に引く『山陽公載記』では「孫車騎長上短下」。
- 蒼梧太守の名は呉臣。
- 周瑜は益州を攻略したあとその地を魯粛に守らせようと考えていた。『呉志』では奮威将軍(孫瑜)。
- 朱桓・厳圭が濡須で常雕らを破ったのは建安十八年。魏将に諸葛虎あり。諸葛虔と同人だろう。
- 甘寧は建安二十年冬に亡くなった。
- 甘寧が呉に仕えたのは劉表が敗北したから。おそらく誤り。
- 谷利は逍遥津の戦いで別部司馬淩統とともに死闘している。淩統の官は誤り。
- 孫権は逍遥津の戦いのあと指を血が出るまで噛んで、生涯の戒めとした。
- 淩統が亡くなったのは建安二十二年。享年二十九。『呉志』本伝の方が間違い。
- 淩統が斬った陳勤は部下の将。おそらく誤り。『呉志』本伝が正しい。
- 逍遥津で活躍した淩統は、孫権の寝室に出入りすることを許された。原文「常使出入臥内」。使者を淩統の寝室に出入りさせたとも読める。
- 建安二十三年秋、横江将軍・益陽侯の魯粛が亡くなった。
- 周瑜は魯粛を奮武将軍に昇進させるよう遺言した。
- 孫権は関羽を滅ぼすと車騎大将軍に任じられた。曹丕の詔勅に驃騎将軍とあり、おそらく誤り。
- 呂蒙は南昌太守。南郡の誤り。
- 呉に降った蜀将の名は龐粛。『呉志』呂蒙伝では襲粛。
- 呂蒙が併合を辞退した部曲の将は徐碩・宋芝の二人。『呉志』本伝では成当・宋定・徐顧の三人。
- 延康元年秋、魏将梅敷が南陽長史張倹を使者とし、南陽五県の住民を連れて降服した。
- 曹丕が受禅改元したのは延康二年の冬十月。これは誤り。そのため劉備の称帝や武昌への遷都なども一年づつずれている。
- 建安二十六年に初めて丹楊郡を創設した。
- 陸遜は劉備を防いだとき大将軍だった。誤り。
- 陸遜が五屯において劉備を破ったのは建安二十八年閏正月。
- 曹仁・曹休らを破ったのち呉王に就けと孫権に勧めたのは陸遜。
- 孫権が呉王に就いたのは建安二十八年十一月。
- 呂範が揚州牧になったとき、丹楊太守を後任したのは東征将軍高瑞という人。征東将軍の誤りか。
疲れた。今回はここまで。