光武帝紀2 「赤眉の乱」

続きです。場面はかわって山東半島の琅邪へ。


さて、琅邪国に呂母(りょぼ)という金持ちの夫人があった。むかし息子を県長に殺され、なんとか復讐したいと願っていた。そこで酒を作ったり武器を大量に買ったりして、近所の少年たちに足りないものを融通してやった。何年かするうちに財産をすっかり使いはたし、少年たちが気の毒がって金を返しに行くと、呂母は「金が欲しくてやったんじゃない、同情なんかいらないよ。私は息子のかたきを討ちたいんだ」と涙を流した。少年たちは彼女の心意気に打たれ、また恩義にも感じていたので、すぐにみんな助力を申しでた。

こうして呂母は将軍を自称し、数百人の仲間を率いて役所を攻撃した。捕まった役人たちに「あなたたちに罪はない、私は県長に復讐したいだけなのだ」と解放してやると、役人たちは土下座して県長の命乞いをした。呂母は「息子はささいな罪で殺されたんだ。なのにどうして人殺しの命乞いをするのかい?」と言い、みずからの手で県長を殺し、その首を持って息子の墓にお供えした。

その事件以来、樊崇(はんすう)・逄安(ほうあん)などといった連中がみんな盗賊となり、一年間でそれぞれ数万人の仲間を集めた。もともと樊崇らは貧困のため盗賊になっただけで土地を征服するつもりがなかったので、人を殺してはならぬと部下に命じ、人徳者を選んで三老に任じ、それに準ずる者を従事や卒吏などとした。王莽配下の田況が彼らを討伐して大破したが、戦場で略奪をはたらいたのは田況軍の方だった。

王莽は廉丹(れんたん)・王匡(おうきょう)らを東へやり樊崇らを攻撃させた。廉丹が定陶に到着したとき、王莽から詔勅が届いた。それが「米蔵が空っぽだ。金庫が空っぽだ。怒るのも当然だろう?震えるのも当然だろう?」という内容だったので、廉丹は不安になって部下の馮衍を呼んで相談すると、馮衍は言った。「民衆は漢王朝を懐かしく思っております。将軍は豊かな郡を奪取して郡民を手なずけ、英雄豪傑を招き、王氏を滅ぼして不朽の功績を立てるべきです。」廉丹はそれを受け入れることができなかった。さらに睢陽まで進軍したところで、馮衍はまた進言したが廉丹は聞き入れなかった。

樊崇は敵味方を区別するため、仲間に眉を赤く染めさせた。彼らが「赤眉」と呼ばれるのはそのためなのだ。赤眉一味の董憲は仲間数万人をかかえて梁郡を押さえていた。王匡・廉丹が無塩城を陥落させたので、王莽は彼らを公爵に取りたてた。王匡はそのまま董憲を攻撃しようとした。廉丹は兵士が疲れているので休養させるべきだと言ったが、王匡がそれを聞き入れずに一人で出撃したので、仕方なく廉丹も追いかけていった。成昌で戦いになり、負け、王匡は逃走した。廉丹は「小僧は逃げるがいい、おれは逃げたりせぬ」と言い、踏みとどまって戦死した。王莽はその死を悲しんだ。

王莽は褒章を山東にやって王匡を支援させ、陽浚には敖倉を守らせ、王尋には十万人を率いて雒陽に進駐させ、董忠には兵士たちに弓術の訓練をさせ、大臣の王邑に国政全般をしきらせた。四方の盗賊どもには数万人を抱える者などもおり、王匡らはたびたび戦いに敗れた。王莽は天下が崩壊しつつあるのをみて、高官たちを各地に派遣して財産に関する規制を解除させ、民衆に迷惑をかけた勅命はすべて撤回することとした。