光武帝紀8 「河北へ」

後漢紀』抄訳の第八回目。兄の仇・更始帝の膝下で屈辱の日々を送る劉秀。ついに新天地・河北へと旅立つチャンスが訪れます。そして、劉秀の人望を慕って、また新たな仲間が加わります。
さて、更始帝*1は大将を派遣して河北*2を平定しようと考えていた。だが、劉賜*3以下、皇族の中にその任務に堪えうる者はなく、唯一、劉秀*4だけが残っていた。朱鮪*5らはその任用に反対した。しかし左丞相*6曹竟*7は、かつて親子してその職務に就いて以来、劉秀が馮異*8の勧めにより彼らと親密になっていたのだ。そのおかげで劉秀は大司馬*9に任命され、河北平定を任される。

このとき馮異・銚期*10・堅鐔*11・祭遵*12・臧宮*13・王霸*14らが属官となって河北行きに従軍したものの、その他の賓客たちは多くが劉秀の元を去った。劉秀は王霸に告げた。「潁川*15からずっと私に付いてきた連中も、もうみんないなくなってしまった。しかし疾風こそが強い草を知るという*16。君たちががんばってくれよ。」

堅鐔は字*17を子汲*18といい、襄城*19の人である。県役人の身から劉秀軍に従軍することになった。

祭遵は字を弟孫*20といい、潁陽*21の人である。実家は裕福であったが着飾ることを嫌い、儒学を愛好した。母が亡くなると、みずから土砂を背負って墓を作ったので、孝行者だと評判になった。かつて亭長*22に侮辱されたことがあり、祭遵は食客たちと手を組んで亭長を殺し、県内では祭遵が儒者であると同時に勇者でもあると称賛された。劉秀が昆陽*23で二大臣*24を打ち破って潁陽に帰陣したとき、祭遵は県役人として何度か面会することがあり、そのとき劉秀はその容姿を愛し、「私に付いてこないか?」と尋ねた。祭遵は「付いていきたく思います」と答えた。こうして門下吏*25に任命された。

臧宮は字を君翁*26といい、郟*27の人である。県の亭長であったが、賓客を連れて下江兵*28に身を投じた。昆陽の戦いでは、その武勇が諸将の称賛を受けた。劉秀はその寡黙ながら努力を重ねるさまを見てとり、(友軍の中からは)ただ一人、じきじきに招きよせた。

かつて、兄・劉縯*29が殺害されたとき、劉秀はあえて喪服を着けず、飲食も普段通り、談笑することも普段通りであった*30。しかし一人でいるときは肉も酒も口にせず、枕元には涙の跡があった。馮異だけがそのことを知っていて、劉秀を慰めた。劉秀が驚いて言った。「でたらめを言ってはいけない。そんなことあるものか!」そこで馮異は言った。「天下の人々はみな王氏*31に苦しめられ、漢王朝を懐かしんでおります。いま下江兵の諸将は勝手気まま、あちこちで略奪を働き女性を奪うありさまです。百姓たちは、君主と仰ぐべき人はいないと希望を失ってしまいました。いま公*32は一方面を委任されたのですから、ひろく恩徳を施すべきです。桀*33・紂*34の混乱あればこそ湯*35・武*36の功績があるのです。すぐに役人たちを派遣して罪なき者は解放し、恩恵を施されますよう。」そこで馮異・銚期を派遣して百姓たちを慰めると、各地の二千石*37・長吏*38・三老*39たちはみな飲食を捧げ、囚人を解放して厳罰をやめ、漢の制度・法律を復活させた。役人も民衆も大喜びして牛肉と酒(を捧げにきた人々)は路上に満ちあふれたが、すべて辞退して受け取らなかった。

南陽*40新野*41の人である訒禹*42は字を仲華*43といい、若いころから徳行によって知られていた。かつて長安*44に遊学したおり、劉秀と顔見知りになり、並々ならぬ人物であると見抜いた。更始帝が即位すると、人々はみな訒禹を推挙したが、訒禹は辞退して受け入れなかった。劉秀が河北平定に向かうと聞き、訒禹は鞭を手にして追いかけ、鄴*45でようやく追いついた。劉秀は訒禹に出会ってたいそう喜び、「仕官したいのかね?」と尋ねた。訒禹「いいえ」、劉秀「それでは、どうしたいのかね?」、訒禹「明公*46の威信・徳義は天下に行き届いております。訒禹は少しでも功績をお立ていたし、史書に名を残す。それが我が本望でございます。」

劉秀は訒禹の宿舎に泊まったが、このとき訒禹が進みでて言った。「聖人は時期を逃すことがなければ失敗することもなし、とは古人の言葉。古代の明君の成功を参照いたしますと、二つの条件によって成功を収めております。天運と人材です。いま天運を観測いたしますと、更始帝がすでに即位しておりますのに変事は今にも起こりそうですし、人材を観察いたしますと、帝王の偉業は凡人に任せられるものではありません。更始帝が凡才であるうえ、その補佐役にも忠臣・智者はいないのです。公は真心を尽くして人材を遇し、英雄たちの希望を集めており、天下の人々はみなお役に立ちたいと願っております。公の徳は人々の帰依するところです。昆陽の戦いでは王莽*47軍四十万を打ち破り、天下の人々はみな平伏しました。公の武は人々の心服するところです。軍政は粛々、大人も子供も礼儀を弁えており、恩賞も処罰も行き届かぬことはありません。公の文*48は人々の安堵するところです。河内*49は山と黄河とを抱える要害の地、その土地はよく肥えており、かつては殷の都でありました。公がこれを領有するのは、高祖*50が関中*51を領有するのと同じです。進軍して冀州*52を平定し、北進して幽州*53・幷州*54騎馬民族を従え、東進して青州*55・徐州*56の海産物を取り、この三方を背景に南面して号令をかければ、天下は平定するまでもございません。」劉秀は笑いながら「まあ、一緒に北へ逃げるのが先決だ」と言い、側近の者たちには、彼を「訒将軍」と呼ぶように命じた。

鉅鹿*57宋子*58の人である耿純*59は字を伯山*60といった。耿純は李軼*61にこう告げた。「李将軍は龍虎のごとき雄姿をお持ちで、風雲の時機に乗じて立ち上がられました。数ヶ月のうちに、兄弟*62そろって富貴の身に昇られましたが、恩徳・功績はいまだ民衆に届けられておりません。急激な栄達は智者の戒めるところです。」李軼は立派な見解だと思い、耿純に節*63を与えて魏*64・趙*65地方を慰撫させることにした。このとき劉秀が邯鄲*66におり、耿純はその長者ぶりと属官たちの規律を見ると、志願してその配下に加わった。

南陽*67の人である朱祜*68は字を仲先*69といい、劉秀とは旧知の仲であった。劉縯が挙兵したときには護軍*70を務めた。劉縯が殺害されると、朱祜はずっと怨恨を抱きつづけ、劉秀はそんな朱祜をけなして距離を置くようになった。

朱祜が長安へ行こうとしたとき、劉嘉*71が「どこへ行きなさる?」と尋ねた。朱祜が「長安へ参るつもりです」と答えるので、もともと劉秀を高く評価していた劉嘉は「あなたは劉公*72と仲が良かったのに、なぜ北へ行かないのか?私の部下に苦労人がいて、劉公に預けるつもりなのだが…」と言った。朱祜が「それならば一緒に参りましょう」と答えたので、車馬を与えて賈復*73・陳俊*74と一緒に北へ行かせた。柏人*75で劉秀に追いつき、ふたたび護軍に取り立てられ、劉秀はいつも彼を室内に入れて可愛がった。あるとき朱祜がなにげなく「更始帝の政治は混乱しております。公は太陽に似たふくらみ*76をお持ちで、天命を授かったお方です」と言ったところ、劉秀は怒りをあらわにし、いまにも彼を縛り上げそうな勢いであった。それ以来、朱祜はそのことを語らなくなった。

賈復は字を君文*77といい、南陽冠軍*78の人である。かつて舞陰*79の李生*80に師事したとき、李生は彼を大いに評価し、「賈生*81の容貌・志気はこんなに立派だ。学問に打ち込めば将軍か宰相になれる器だぞ」と門弟たちに告げた。のちに県役人となり、河東*82から塩を搬入することになった。盗賊に出くわし、同僚十数人はみな塩を捨てて逃げたが、賈復だけは塩を守って県に送りとどけたので、県内の人々はその信義を称賛した。漢軍が挙兵すると、賈復も羽山*83で数百人の仲間を集め、のちに劉嘉に属して校尉*84に取り立てられた。

更始帝の政治が日ごとに衰えるのを見るや、先々を見すえるよう劉嘉に勧め、「堯*85・舜*86の仕事ができなかったのが湯・武です。湯・武の仕事ができなかったのが桓*87・文*88です。桓・文の仕事ができなかったのが六国*89です。六国の仕事ができなかったので六国は滅亡したのです。いま漢王朝は復興し、大王は皇族として補佐役でいらっしゃいますが、天下が平定されなければその地位も保てますまい」と言うと、劉嘉は「公*90の言葉は壮大すぎて、私には荷が重い。大司馬の劉公が河北にいるから、行って身を投じるがよい」と答えた。そこで劉秀に会うと、劉秀もまた彼を大いに評価した。また訒禹も賈復には将帥の才能があると評価したので、賈復は都督*91に任命され、劉秀から副え馬を与えられた。

陳俊は字を子昭*92といい、南陽西鄂*93の人である。若いころ長安へ遊学し、帰国して郡役人となった。漢軍が挙兵すると、劉嘉の長史*94を務めた。劉秀に出会ったのち、曲陽*95の長*96への辞令をもらったが、陳俊は劉秀に向かって「あなたの側近になれればとさえ思っているくらいなのに、たかが小県の長の地位などでは私を足留めすることなんかできませんよ」と言い、すぐさま印綬*97を返上して辞職した。劉秀は、陳俊を彊弩将軍*98に取り立てて中堅*99の兵士を統率させた。陳俊が調練すると、軍の進退はみな旗や太鼓に響くようなありさま、敵軍を目の前にしては奮闘し、向かうところ敵なしであった。だから劉秀は「諸将がみなこんな風であってくれれば、ほかに何を心配することがあろう」と言ったのである。

*1:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。

*2:かほく。黄河北岸の平原地帯。

*3:りゅうし。

*4:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*5:しゅい。更始帝重臣

*6:さじょうしょう。官名。宰相。

*7:そうけい。原文では「曹競」(そうけい)とあるが『後漢書』により改める。

*8:ふうい。

*9:だいしば。官名。三公の一つ。軍事担当の大大臣。

*10:ちょうき。

*11:けんたん。

*12:さいじゅん。

*13:そうきゅう。

*14:おうは。

*15:えいせん。郡名。

*16:強風が吹けば弱い草はすべて倒され、強い草だけが残る。逆境に遭ってこそ優れた人材が残るという意味。

*17:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。

*18:しきゅう。

*19:じょうじょう。県名。

*20:ていそん。

*21:えいよう。県名。

*22:ていちょう。官名。亭の管理者。亭は郷に属する行政単位。

*23:こんよう。県名。

*24:原文では「二公」。王尋・王邑のこと。ともに王莽の大臣。

*25:もんかり。官名。

*26:くんおう。

*27:きょう。県名。

*28:かこうへい。義勇軍に合流した山賊の一味。

*29:りゅうえん。字は伯升(はくしょう)。劉秀の兄。原文では「伯升」と呼び、実名を書かない。

*30:服喪期間中は肉や酒を口にしてはならず、笑ってはならないとされた。

*31:王莽(おうもう)のこと。

*32:こう。大臣を呼ぶときの敬称。

*33:けつ。古代、夏(か)の暴君。

*34:ちゅう。古代、殷(いん)の暴君。

*35:とう。殷の湯王。夏の桀王を討伐して殷王朝を築く。

*36:ぶ。周(しゅう)の武王。殷の紂王を討伐して周王朝を築く。

*37:にせんせき。俸禄二千石を取ったことから、郡の太守をいう。

*38:ちょうり。県の長官。

*39:さんろう。郷の長官。

*40:なんよう。郡名。

*41:しんや。県名。

*42:とうう。

*43:ちゅうか。

*44:ちょうあん。当時は「常安」(じょうあん)と呼ばれていた。王莽が都とした地。

*45:ぎょう。県名。

*46:めいこう。大臣を呼ぶときの敬称。

*47:おうもう。新王朝の皇帝。前漢を滅ぼした。

*48:法律とその運用。

*49:かだい。郡名。

*50:こうそ。劉邦(りゅうほう)のこと。前漢創始者

*51:かんちゅう。函谷関の内側、長安の一帯。

*52:きしゅう。州名。

*53:ゆうしゅう。同上。

*54:へいしゅう。同上。

*55:せいしゅう。同上。

*56:じょしゅう。同上。

*57:きょろく。郡名。

*58:そうし。県名。

*59:こうじゅん。

*60:はくざん。

*61:りいつ。更始帝重臣

*62:李軼とその従兄・李通(りとう)を指す。

*63:せつ。勅使に与えられる旗。

*64:ぎ。古代の国名。

*65:ちょう。同上。

*66:かんたん。県名。

*67:えん。県名。

*68:しゅこ。原文に「朱祐」(しゅゆう)とあるのは、のちの皇帝・劉祜(りゅうこ)の名を避けたもの。

*69:ちゅうせん。

*70:ごぐん。官名。

*71:りゅうか。更始帝重臣

*72:りゅうこう。劉秀のこと。

*73:かふく。

*74:ちんしゅん。

*75:はくじん。県名。

*76:原文「日角」。劉秀は額に太陽に似たふくらみを持っていた。貴人の相。

*77:くんぶん。

*78:かんぐん。県名。

*79:ぶいん。県名。

*80:りせい。

*81:かせい。「生」は学者を呼ぶときの敬称。

*82:かとう。郡名。

*83:うざん。山名。

*84:こうい。官名。将校。

*85:ぎょう。古代の聖帝。

*86:しゅん。同上。

*87:かん。斉(せい)の桓王。古代の霸者。

*88:ぶん。晋(しん)の文王。古代の霸者。

*89:古代の列強国。燕(えん)・斉(せい)・楚(そ)・韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう)。秦(しん)に滅ぼされた。

*90:ここでは、単に二人称として用いている。

*91:ととく。総督。『後漢書』では「破虜将軍に任命されて盗賊を取り締まった」とあり、ここで都督とあるのは誤り。

*92:ししょう。

*93:せいがく。県名。

*94:ちょうし。官名。事務次官

*95:きょくよう。県名。

*96:ちょう。官名。県の長官。世帯数一万以上の県に令、一万未満の県に長を置いた。

*97:いんじゅ。印とその紐。その官職の証とされた。

*98:きょうどしょうぐん。官名。彊弩は「力強い弩」の意。弩は引き金を引いて矢を発する機械じかけの弓。

*99:ちゅうけん。劉秀軍の本陣のこと。