諸葛誕の父

世説新語箋疏』を読んでいたら、諸葛誕の父は諸葛玄じゃないかとの推測が書いてあった。

世説新語箋疏』方正篇


余嘉錫は考える。


諸葛靚の姉は司馬懿の子である琅邪王司馬伷の王妃である。『晋書』司馬伷伝によると、司馬伷の長子・司馬覲は字を「思祖」といったという。『北堂書鈔』『太平御覧』に引用する『晋武起居注』では「東莞王の世子・司馬瑾」と作っており、諸葛子瑜と同名である。字を「思祖」というのは、外祖父である諸葛子瑜を思慕するという意味なのだ。


三子・司馬繇は字を「思玄」という。『諸葛亮伝』には「諸葛亮の従父・諸葛玄」とあり、本書「品藻篇」では「諸葛誕諸葛瑾諸葛亮の従弟」とある。さすれば諸葛誕は諸葛玄の息子なのだろう。「思玄」というのは、外曾祖父を思慕するという意味なのだ。


『太平御覧』に引用する『魏末伝』は、「諸葛誕が文欽を殺したので、文欽の子・文鴦と文虎は、諸葛誕を殺してその肝を食った」と言っている。また『晋諸公賛』を引用して「東安公司馬繇は諸葛誕の外孫にあたるので、文俶を殺そうと思い、楊駿が誅殺されたとき謀叛の罪を着せて三族皆殺しにした」とも言っている。『晋書』司馬伷伝には「司馬繇は文俶を誅殺したあと、母を亡くした」とある。司馬繇が文俶を殺したのも、文俶を殺して父の仇を討たせようと、王妃の諸葛氏が入れ知恵したのであろう。


となれば、諸葛靚が孝子であるばかりか、その姉もまた孝女であったことになる。諸葛氏の代々にわたる恩沢のなんと遠大なことか。