蜀の鎮征

蜀では後漢の職制をほぼ踏襲し、四鎮のほうが四征よりも優位であった。

ただし、鎮征の相対的な序列を引きついではいても、後漢が群雄(劉表張魯など)を待遇するために四鎮号を用意したのに対し、蜀では鎮征ともに一般的な将軍号となっており、職制全体からみれば重みが落ちている。

鎮征在職者の将軍号の変遷を見てみよう。

趙雲翊軍将軍→征南将軍→鎮東将軍→鎮軍将軍(貶号)
黄忠討虜将軍→征西将軍→後将軍
黄権偏将軍→鎮北将軍
馬忠奮威将軍→安南将軍→鎮南大将軍
王平牙門将軍→裨将軍→討寇将軍→安漢将軍→鎮北大将軍
胡済昭武中郎将→鎮西大将軍
張翼綏南中郎将→征西大将軍→鎮南大将軍→左車騎将軍
輔匡鎮南将軍→右将軍
魏延牙門将軍→鎮遠将軍→鎮北将軍→征西大将軍
姜維奉義将軍→征西将軍→輔漢将軍→鎮西大将軍→衛将軍→大将軍
宗預屯騎校尉→後将軍→征西大将軍→鎮軍大将軍
劉邕征南将軍
袁綝前将軍→征西将軍
申耽征北将軍
陳到征西将軍

こうして見ると、四征から四鎮、四鎮から四征大将軍、四征大将軍から四鎮大将軍と異動しており、その逆行は見られない。四鎮のほうが四征よりも優位だったのは確実であろう。

また、前後左右の四方将軍との関係だが、黄忠、輔匡が鎮征から四方に上がっており、宗預が四方から四征大将軍に上がっていることからすると、四方は四鎮と四征大将軍の中間に位置したと思われる。したがって、前将軍の袁綝が征西将軍に異動したとあるのは、おそらく征西大将軍の誤りであろう。『華陽国志』のこの部分の記述にはいささか混乱が見られるのである。

なお、趙雲が四鎮から鎮軍に左遷されたとあり、また宗預が征西大将軍から鎮軍大将軍に移っており、鎮軍は四征よりも上位、四鎮よりも下位だったのであろう。

総合すると、まず、大将軍・驃騎・車騎・衛将軍が最上位にあり、四鎮・鎮軍・四征の大将軍がつづき、前後左右の四方将軍、四鎮・鎮軍・四征将軍、その他の雑号将軍、偏・裨・牙門将軍とつづいたと見てよいのではないか。