顔良のほこら

『閲微草堂筆記』灤陽続録一

先輩の趙鹿泉(趙佑学)さんが教えてくれた。

呂城というのは、呉の呂蒙が築いたものである。河川をはさんで両岸に二柱の神のほこらがある。一方は唐の汾陽王の郭子儀である。これだけでも訳がわからないのに、もう一方は袁紹の部将、顔良なのである。どうした謂われがあるのか、ますます訳がわからない。

住民がお祈りを捧げると、ひじょうに霊験あらたかである。ほこらの周囲15里のなかでは、たった一つの関帝廟すら開設は許されない。開設すれば災いを起こすのである。

県令はそのことを信じず、ちょうど顔良のほこらで祭りがあるというので、じきじきに参観へ出かけた。そこで俳優たちに命じて、わざと三国の芝居をやらせたところ、とつぜん暴風が吹きあれて藁小屋や日よけの幕をたかだかと舞いあがらせ、それからものすごい勢いで落下させたので、俳優のなかに死者を出した。

周囲15里のなかでは疫病が大流行し、人間も家畜も死滅した。県令もやはり重病にかかり、危うく命を落とすところだった。

岡本綺堂に抄訳がある。