朱儁と陶謙

董卓の乱では、意外に見落としがちな朱儁周辺の動きについて。


初平二年(191年)四月、董卓長安に入ったが、洛陽には朱儁を残して山東諸将に対抗させた。しかし朱儁山東側に味方し、中牟に駐屯した。そこで朱儁山東諸将に檄文を飛ばしたところ、徐州刺史の陶謙が応じて精兵三千を提供してくれた。陶謙はそのとき朱儁を行車騎将軍に推挙している(以上『後漢書』朱雋伝)。袁紹がそのころ行車騎将軍を自官しているはずなので衝突が発生する。袁紹を盟主とあおぐ一派は朱儁を認めないだろうし、朱儁を盟主とあおぐ一派は袁紹を認めないだろう。実際には、年月を前後させて回避しているかもしれないが。


初平三年、董卓の死後、陶謙らは諸将と連名で朱儁を太師に推挙するが、諸将の顔ぶれは徐州刺史の陶謙をはじめ、前の揚州刺史の周乾、琅邪相の陰徳、東海相の劉馗、彭城相の汲廉、北海相孔融、沛相の袁忠、太山太守の応劭、汝南太守の徐璆、前の九江太守の服虔、博士の鄭玄らである(『後漢書』朱雋伝)。このうち孔融、応劭、服虔、鄭玄らは、後世でも名を知られた文士、学者である。

顔ぶれは全体的にやや袁術寄りだろうと思うが、しかし袁術一派とも完全には重ならない。連名者の官職をみると刺史、相、太守、博士の順にならび、現職と前職が混在する場合は現職が先に立てられている。それぞれの任地は、徐州を中心に、それを取りまく青州、兖州、予州、揚州の各州郡である。


袁忠は汝南袁氏の一門であり、法をもって曹操を取り締まろうとしたというが、詳細はよく分からない(武帝紀の注に引く『曹瞞伝』、および『後漢書』袁安伝)。袁忠はのちのちまで曹操の怨みを負いつづけているが、それが陶謙に一味しているのである。袁忠はその後、戦乱を避けて会稽郡の上虞へ逃れている。会稽太守の王朗は陶謙の故吏であり、上虞は朱儁の故郷である。沛相を後任したのは陳珪だろうか。陳珪は陶謙のお膝元、下邳の出身である。

応劭はのちに領内において曹操の父曹嵩が殺害されており、下手人は陶謙の部将張闓であったから、その事件は陶謙との協同のもと起こされた可能性がある。曹操の怨みを背負うものが二人も加わっているが、これは偶然なのだろうか。

徐璆は荊州刺史の時代、朱儁とともに黄巾賊を討伐したことがある。今回の朱儁推挙のあとは劉馗を後任したのか、東海相に異動している。その後、献帝のお召しを受けて許へ向かう途中、袁術に勾留されて三公の官職を押し付けられそうになったというが、これは合点がゆかない。東海から許へ行くのに、淮南の袁術に捕まるはずがない。みずからの意志で袁術のもとへ行ったか、あるいは徐州情勢の変化を受けて現地ですでに自由を失っていたか、そのいずれかであろう。


なお、朱儁長安政権の誘いを受けて太僕を拝命しているので、この太師への推挙は不発に終わっている。