董奉2

8月26日エントリの続きです。

のちに予章へ帰って盧山のふもとに住まいを構えた。ある人が病気にかかって今にも命を落としそうになり、車に載って董奉のもとへ行き、地面に平伏して命乞いをした。董奉は病人を部屋のなかへ座らせ、五枚重ねの布きれで覆い、動いてはならぬぞと言い付けた。(董奉はその場を立ち去り、しばらくしてから戻ってくると)病人は「なにやら化け物がやってきて私の体を舐め回しました。痛くて痛くてかなわず、そこら中を転げ回ってしまいました。やつの舌は幅一尺ほど、呼吸は牛のようで、何者かは分かりませんでした。しばらくして化け物は去りました」と報告した。董奉は池の水をくんで病人に浴びせ、「近いうちに快癒するだろう。しかし風にあたってはならぬぞ」と言って、家に帰らせた。十数日後、病人は体中がまっ赤になって皮が剥がれ落ち、とてつもない痛みに襲われた。水を浴びるとようやく痛みが治まった。二十日後、皮が生えかわって病気が治り、肌は石けんのように白くなめらかになった。
後年、大日照りになったとき、県令の丁士彦が部下たちと相談して「聞けば董君は道術を心得ておるとか。雨を呼ぶこともできるはずだ」と言い、みずから酒と干し肉をたずさえて董奉に会いに行き、大日照りのことを話した。董奉は「雨を呼ぶのは簡単だが…」と言いながら屋根を見上げ、「貧乏道士ゆえ、空が見えるほど屋根に穴があいておりましてな、雨が来たらどうなるかと心配しておるのですよ」と言った。県令は彼の意図を察し、「先生はただ雨を降らせてくれれば結構です。立派な屋根をご用意いたしましょう」と言った。翌日、丁士彦はみずから官吏百人あまりを連れて竹木を運び、屋根を完成させた。土を集めて泥を作ろうと思い、数里先まで水をくみに行こうとしたとき、董奉が「わざわざそこまでしなくても、日暮れには大雨になりますよ」と言うので、水くみをやめた。日が暮れると途端にどしゃ降りになり、身分の上下なく、四方の人々はみんな大喜びした。
董奉は山で暮らしていたが畑仕事はせず、毎日、人々の病気治療にあたり、そこでも金銭を受け取らなかった。重病の患者が快癒したときは五株の杏の木を植えさせ、軽い病気なら一株を植えさせた。このようにして数年が経つと、およそ十万株あまりになり、鬱蒼たる杏の林ができあがった。山にすむ数多くの鳥や獣を杏林のなかで遊ばせたので、草は生えず、いつも草むしりをしたような状態になっていた。杏の実がたくさんなったとき、林のなかに藁で倉庫を作り、人々にそれを見せて「杏の実が欲しければ、わざわざ私に報告する必要はない。ただ食べ物を一皿、倉の中に置き、それから自分で一皿分の杏を取ってゆけばいい」と言った。あるとき、食べ物は少ししか持ってこないのに、杏の実をたくさん取ってゆく者があった。林のなかの虎たちが飛び出して、咆吼しながら追いかけてきた。その者はたいそう恐怖して、あわてて杏の器を拾い上げて逃げだした。道ばたに杏の実をこぼしていったので、家について杏の実を数えてみると、置いてきた食べ物とちょうど同じくらいになっていた。またあるとき、杏の実を盗んだ者があったが、虎がその者を家まで追いかけ、噛み付いて殺してしまった。家族の者は彼が盗みを働いたことを知り、杏の実を董奉に送り返し、土下座して謝罪した。董奉は彼らを家に帰し、かの者を生き返らせてやった。董奉は毎年、杏の実を売って食べ物に換えていたが、今度は施しをして貧困を救い、行き倒れの旅人を支援したりして、一年間に二万斛以上を使いはたした。
県令には娘がいて、魑魅魍魎に取り付かれて精神がおかしくなっていた。医療を施しても効果がなく、そこで董奉のもとへ行って治療を願い、「もし娘が快癒したら、嫁入り道具を持たせて娘を差し上げましょう」と持ちかけた。董奉は承知して、すぐさま体長が数丈もある一匹の白いワニを取り寄せ、陸路、病人の家へ行き、従者に命じてワニを斬らせると、娘の病気はその途端に快癒した。董奉はこうしてその娘を妻に迎えたのだが、ずっと子供に恵まれなかった。董奉が出かけるたび、妻は一人で残っているのが辛く、人にお願いして養女をもらった。その娘が十歳あまりになった、ある日、董奉はつま先立ちになると、雲の中へと潜って消えた。妻と娘はそれからも家に残っていて、杏の実を売って食べ物を得ていた。彼らをだまそうとする者があると、虎が出てきて追い払った。董奉は人間界にあること三百年あまり、去るときも顔形は三十歳くらいの人に見えた。

以上、『太平広記』所収の『神仙伝』から簡単に抜き出してみました。董奉の故事から、「杏林」といえば医学界を指す言葉になりました。また、華佗、張仲景と合わせて「建安の三神医」とも呼ばれているそうです。