周魴の息子・周処

晋の武将ですけどね。一時期、呉の孫晧に仕えていたこともあります。

世説新語
呉の周魴の息子・周処は若いころ、任俠にかぶれて凶暴であり、故郷の人々の悩みの種になっていた。それに義興郡の川には大蛇、山には虎が徘徊していて、それぞれが百姓らに危害を加えていたので、義興の人々は周処と合わせて「三横」(三つの乱暴者)と呼んでいた。周処はその中でも一番ひどかった。

あるとき、周処に向かって「虎や大蛇を退治したらどうだろう?」と勧める人がいた。実は、「三横」同士を戦わせて被害を三分の一に減らそうという策略だったのだ。

周処はその日のうちに虎を刺し殺した。今度は川に入って大蛇と戦った。大蛇は周処にからみついたまま浮いたり沈んだりしながら数十里先まで流れていった。そのまま三日三晩が経ち、故郷の人々はみな「周処が死んだ!」と言い合い、祝賀の宴会を開いた。

しかし、周処は生きていた。大蛇を仕留めて帰ってきたのだ。そして自分が死んだのを人々が喜んでいたことを伝え聞くと、自分がいかに人々に迷惑をかけてきたのか、はっと気付き、それからは自分の行いを改めようと決意した。

周処は陸機・陸雲兄弟のもとを訪ねた。陸機は出かけていて会えなかったが、陸雲とは会うことができた。周処がこれまでのことを打ち明け、「今さら改めたところで、物にならないのではと心配なのです」と言うと、陸雲は「古代の人々は、朝、真理を知ると、その日の夕方に死んでも後悔しなかったそうだ。ましてや君は前途有望な若者ではないか。第一、人間は志を立てても叶わないことを心配するものだ。どうして名声を得られないことまで心配するのかね!」と言ってくれた。

周処はそれ以来、努力して行いを改め、ついに、忠義な臣下、孝行な息子になったのである。

のちに周処は晋の将軍となり、反乱軍鎮圧を命じられたが、弓は弦が切れ、矢は底を尽き、部下が「退却しましょう」と勧めるのを断り、「今日こそは天命の日だ」と叫び、戦い続けたすえ、死んだ。