徐晃と周亜夫

建安二十四年(二一九)、徐晃関羽を打ち破って荊州の危機を救うと、摩陂に引きあげて曹操の本隊に合流しました。このとき摩陂には何人もの将軍たちが集結していました。曹操は本営を出て、その将軍たちの陣営を訪問します。すると各陣営の兵士たちはぞろぞろと出てきて曹操の顔を見ようとしました。しかし、曹操徐晃の陣営を訪問したときだけは、徐晃の兵士は決して身動きすることなく持ち場を守っていたので、曹操は「徐将軍は周亜夫のような風格がある」と感歎しました。

周亜夫とはどんな人物だったのでしょうか。
周亜夫は前漢の功臣周勃の子です。『史記』『漢書』に伝記があります。

文帝(劉恒)の時代、匈奴が国境から侵入してきたので、周亜夫・劉礼・徐窅が将軍として防御を命じられ、周亜夫は細柳、劉礼は霸上、徐窅は棘門に駐屯しました。文帝は彼らを慰労するため、まず霸上の駐屯地に行きました。天子さまがお越しになったということで、だれも行く手を遮ろうとはせず、部将たちが出迎えました。棘門へ行ったときも同じです。

ところが、細柳へ行ったときだけは違っていました。周亜夫配下の兵士たちは鎧に身を固め、武器を手に取り、弓に矢をつがえて警戒しています。先行部隊は入っていくことができず、「天子のお出ましだぞ!」と言いましたが、陣門を守る軍人は「『将軍の命令は聞き、天子の詔勅は聞くな』というのが周将軍のご命令です」と突っぱねます。

やがて文帝の本隊が到着しましたが、やはり門を開けてもらえませんでした。文帝は仕方なく、正式な旗を使者に持たせて周亜夫に「陣中で軍を慰労したいのだ」と伝えさせると、周亜夫はやっと開門命令を出しました。そのとき門番が言いました。「将軍のご命令です。陣中では疾走してはいけません。」そこで文帝は馬車をゆっくりと歩かせました。

本営に到着すると、周亜夫が出てきて武器を持ったまま略式の挨拶をし、「鎧武者は拝礼をしないものです。軍式でご挨拶することをお許しください」と言いました。文帝ははっとして軍式で挨拶を返し、「皇帝陛下が周将軍を慰労なさるぞ」と宣伝させました。

挨拶が終わって陣門を出たあと、臣下たちは口々に(周亜夫は無礼な奴だと)騒ぎはじめました。文帝はため息を吐きながら言いました。「ああ、あれこそが真の将軍だよ!霸上・棘門などは子供の遊びに過ぎぬ。彼らは襲撃されれば捕虜になるのが落ちだろうが、周亜夫だけは決して犯すことはできまい!」そして長いあいだ称賛したのでした。