光武帝紀28 「彭寵 亡ぶ」

ここから『後漢紀』第五巻。朱浮との仲違いから叛旗をひるがえした彭寵が、つまらない事件によりあっけなく滅亡。いっぽう劉秀の部下からも反逆者を出して、新たな強敵として前途に立ちふさがります。


建武*1五年*2の春二月の丙午*3、天下に大赦令を下した。周建*4の兄の子である周誦*5が垂恵*6をこぞって降服したので、劉紆*7・周建・蘇茂*8は下邳*9へ逃れた。周建はその途中で死んだ。孔子*10の子孫である孔安*11を殷*12の紹嘉公*13に取りたてた。

むかし彭寵*14から招聘の手紙が潞*15にもたらされたとき、(潞で)火災が起こり、城内の人びとはこぞって城外へ逃げだし、千棟あまりが焼失、数多くの人びとが死ぬという事件があった。火の燃えさかる炉の下から蝦蟇蛙の声が聞こえるので、彭寵の食客*16が地面を掘りおこして探してみても見つからないという事件もあった。たびたび不思議なことが起こるので、卜筮*17や望気者*18はみな兵事は内側より起こるであろうと告げた。彭寵は従弟の子后蘭卿*19がもともと劉秀*20の使者として来た人だったので信用をせず、城外に駐屯せよと命じた。

彭寵の奴隷である子密*21ら三人が彭寵を拘束してやろうと共謀し、彭寵が祭祀で身を清めるため居間に入って昼寝しているとき、三人は一斉に牀ごと縛りあげ、屋外の役人たちに「大王さまは斎戒を終えられ、役人全員に休暇を許されました。ご用件は翌朝うかがいます」と告げた。それから奴隷たちを順番に呼びいれ、彭寵の姿を見せつけて脅迫し、一人づつ縛りあげて空き部屋に閉じこめた。

彭寵が大声で妻を呼んだので、妻が部屋に入ると彭寵が縛られている。「奴隷たちが裏切ったのですか?」と驚いているうちに、奴隷たちは妻の頭を殴り、頬を叩いた。彭寵が言った。「将軍がたのために衣装を揃えてやりなさい。*22」奴隷二人が妻を連れて品物を奪いに行き、一人が彭寵を見張った。彭寵が見張り役に「お前は日ごろ、わたしに可愛がられていたものだ。子密に脅迫されているだけなんだろう。わたしの縄目を解いて屋敷から逃し、命拾いさせてくれよ。娘の彭珠*23をお前の嫁にして、わが家の宝物をみんなお前にやるから」と言ったので、見張り役は気持ちをほぐしたが、屋敷の外を見ると子密がその会話を立ち聞きしていたのが分かり、結局、解放するには至らなかった。子密は妻を連れて部屋に入ると、彭寵の子供たちを捕まえて部屋に閉じこめ、金銀・宝石・衣類など彭寵が身に付けていたものを奪うと、それを六頭の馬に負わせ、妻に命じて絹袋を作らせた。

日が暮れたあと、彭寵の手だけをほどいて「これから子密らを子后蘭卿のもとへ送るから、城門を開いて出してやれ。足留めしてはならんぞ」と城門を守る将軍への命令書を書かせた。(子密らは)命令書ができると彭寵夫妻の首を斬って絹袋に入れ、(劉秀の)宮殿に参上した。子密は無義侯*24に取りたてられた。

彭寵の尚書*25である韓立*26・高宣*27らは彭寵の子である彭午*28を燕王*29に擁立し、子后蘭卿を将軍とした。数日後、彭寵の国師*30である韓利*31が彭午の首を斬って祭遵*32のもとに出頭してきたので、祭遵は軍隊を率いて彭寵一派を処断した。漁陽*33はこうして平定されたのである。

劉秀は耿況*34の功績を評価し、また辺境で長いあいだ苦労したということで、光禄大夫*35樊密*36に節*37を持たせて耿況を京師*38に呼びかえし、大きな屋敷を下賜するなど、たいへんな尊重ぶりであった。耿況は年を取って病気がちであったので、劉秀はじきじきに見舞いに訪れ、耿弇*39を呼んで看病させた。耿弇や耿舒*40はそろって諸侯に取りたてられ、耿国*41は射声校尉*42となり、さらに息子の耿広*43と耿挙*44の二人が郎*45に取りたてられた。子供たちが看病にあたり、いずれも青綬や紫綬*46を垂らしているのを、当時の人びとは名誉なことだと思った。

耿況が薨去すると、下賜品は非常に手厚いものであった。烈侯*47との諡*48が贈られた。息子の耿国が継承権を持っていたが「父は末っ子の耿霸*49を可愛がっておりました」と辞退を申しでたので、劉秀はそれを許可した。耿国は策略の持ち主で、しばしば辺境の事柄について発言し、劉秀はその才覚を認めていた。官職は大司農*50まで昇った。

三月、広陽王*51の劉良*52を趙王*53に移封した。

山陽*54の人である龐萌*55は、更始帝*56冀州*57として劉秀・謝躬*58とともに邯鄲*59を平定したとき、謝躬に「劉公*60を信用してはなりませんぞ」と告げたことがあった。謝躬はそれを劉秀に密告したが、劉秀はかれを説得してなだめた。劉秀は謝躬を処刑したとき、龐萌が軍隊を連れて降服してきたので、その軍隊を取りあげ、龐萌に言った。「むかし邯鄲にいたとき、なぜあんなに早くこのことを予見していたのかね?」龐萌は答えた。「ずっと前から分かっていたからです。」龐萌は柔和な人柄であったから、劉秀はかれを愛し、侍中*61とし、つねづね諸将に向かって「六尺の子供を託して百里の命を寄せる*62ことができるとすれば、龐萌こそがその人だぞ」と言っていた。

龐萌を平狄将軍*63とし、蓋延*64とともに梁*65や楚*66の地域を平定させた。龐萌は蓋延と主導権を争い、蓋延が自分を陥れることを恐れて、とうとう軍隊を率いて反逆した。

夏四月、平狄将軍龐萌が反逆して蓋延を襲撃、楚相*67である孫萌*68を撃破して、東平王*69を自称し、軍隊を率いて董憲*70・蘇茂に合流した(との報告がもたらされた)。劉秀はため息をつきながら言った。「ああ、人間というのはこれほど分からないものなのか。」詔勅を下して言った。「わたしは、かつて人びとの前で、龐萌ならば社稷の臣*71が務まると言ったことがあり、将軍らはその言葉を笑わないでいてくれた。老賊めを皆殺しにすべし。おのおの兵馬を励まし、睢陽*72に集結せよ。」

六月、劉秀は蒙*73行幸した。龐萌・董憲・蘇茂らが三万人を率いて桃城*74を攻撃したので、桃城は事態の緊迫を報告してきた。劉秀は二千人の軽騎兵と数万人の歩兵を率い、朝から晩まで行軍して亢父*75まで来た。官僚たちは疲れきって宿泊を求めたが、劉秀はそれを認めず、さらに十里も進んで任城*76で宿泊した。

翌朝、諸将は賊軍を攻撃しようと願い、賊軍のほうも軍隊を引きしめて戦いに備えていたが、劉秀は「出てはならぬぞ」と諸将に命じた。そのころ呉漢*77の軍勢が東郡*78に駐屯していたので、使者をやって呼びよせた。龐萌らは驚いて言った。「朝から晩まで数百里も行軍してきたから到着するなり戦いが始まるかと思っていたのに、任城に居すわって守りを固め、城内に他人を呼びこむとは。まったく理解できないぞ。」二十日あまりが経過して、呉漢が到着したので、やっと進撃を開始し、大いに打ちやぶった。

龐萌・董憲・蘇茂は数万人を率いて昌慮*79を守り、部隊を分けて新陽*80で進路妨害させたが、呉漢が進撃してそれを撃破したので、昌慮に閉じこもった。

*1:けんむ。劉秀(りゅうしゅう)の建てた年号。

*2:西暦29年。

*3:へいご。ひのえうま。

*4:しゅうけん。

*5:しゅうしょう。

*6:すいけい。集落名。

*7:りゅうう。

*8:そぼう。

*9:かひ。国名。

*10:こうし。儒教の祖。

*11:こうあん。

*12:いん。王朝名。

*13:しょうかこう。「紹嘉」を称号する諸侯。紹嘉は「めでたさを受け継ぐ」の意。

*14:ほうちょう。群雄の一人。

*15:ろ。県名。

*16:原文「堂上」。

*17:ぼくぜい。筮竹(ぜいちく)を用いて占いをする人。

*18:ぼうきしゃ。天気を見て占いをする人。

*19:しこうらんけい。姓名の区切りがよく分からない。

*20:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*21:しみつ。

*22:子密らを「将軍」と呼び、衣装を与えて命乞いをしようとしているのである。

*23:ほうしゅ。

*24:むぎこう。「無義」を称号とする諸侯。無義は「義理を貫く心がない」の意。

*25:しょうしょ。官名。書記官。

*26:かんりつ。

*27:こうせん。

*28:ほうご。

*29:えんおう。燕を領地とする国王。

*30:こくし。官名。

*31:かんり。

*32:さいじゅん。二十八将の一人。

*33:ぎょよう。郡名。

*34:こうきょう。

*35:こうろくたいふ。官名。

*36:はんみつ。

*37:はた。勅使の証。

*38:みやこ。

*39:こうえん。二十八将の一人。耿況の息子。

*40:こうじょ。耿況の子。

*41:こうこく。耿況の子。

*42:しゃせいこうい。官名。

*43:こうこう。

*44:こうきょ。

*45:ろう。官名。官僚の見習い。

*46:いずれも高級官僚が身につける印章の帯ひも。

*47:れっこう。

*48:おくりな。死後に贈られる称号。

*49:こうは。

*50:だいしのう。官名。九卿の一つ。農政を担当する大臣。

*51:こうようおう。広陽を領地とする国王。

*52:りゅうりょう。

*53:ちょうおう。趙を領地とする国王。

*54:さんよう。国名。

*55:ほうぼう。

*56:こうしてい。劉玄(りゅうげん)のこと。

*57:きしゅうぼく。官名。冀州(きしゅう)の長官。

*58:しゃきゅう。

*59:かんたん。県名。

*60:りゅうこう。劉秀を指す。

*61:じちゅう。官名。相談役。

*62:「六尺」は十五歳以下の子供、「百里の命を寄せる」は国政を委ねるの意。『論語』の言葉。

*63:へいてきしょうぐん。官名。平狄は「北方の少数民族を平定する」の意。

*64:がいえん。二十八将の一人。

*65:りょう。国名。

*66:そ。国名。

*67:そしょう。楚国の宰相。

*68:そんぼう。

*69:とうへいおう。東平を領地とする国王。

*70:とうけん。

*71:しゃしょくのしん。君主の家を守る臣下。

*72:すいよう。国名。

*73:もう。県名。

*74:とうじょう。城名。

*75:こうほ。県名。

*76:じんじょう。国名。

*77:ごかん。二十八将の一人。

*78:とうぐん。郡名。

*79:しょうろ。県名。

*80:しんよう。県名。