劉表離反と孫堅の死

ちょっと通説をくつがえしてみる。目からウロコの袁術史。


つとに知られているように孫堅の没年には以下の三説があり、裴松之孫策の上表文に「十七歳で父を失った」とあることを根拠に初平二年(191年)説を支持、これが通説になっている。

三国志孫堅
初平三年、袁術孫堅荊州を征討させ、劉表を攻撃した。劉表は樊・鄧のあいだで黄祖に迎撃させたが、孫堅はこれを撃破、追走して漢水を渡り、襄陽を包囲した。ただ一騎にて峴山を巡っているところ、黄祖の兵士に射殺された。

三国志孫堅伝の注に引く『英雄記』
孫堅は初平四年正月七日に死んだ。

三国志孫策伝注
臣の裴松之が案ずるに、本伝では孫堅が初平三年に死んだと言っている。孫策は建安五年に死んでいてその時は二十六歳であった。孫堅の没年を計算すると孫策は十八歳になるはずだ。ところがこの上表文では十七歳と言っていて、一致していない。張璠『漢紀』および『呉歴』は、いずれも孫堅が初平二年に死んだとしている。こちらが正しく、本伝が間違っているのである。

しかしよく見ると、裴松之説は、孫策の上表文に十七歳とあることその一点のみを根拠としており、もし文面に誤りがあればその前提はすべて崩れてしまうことになる。本伝や『英雄記』がそろって誤り、孫策の上表だけが正しいと信じられる保証はなにもない。

三国志』本伝にしても同じことが言えるが、『英雄記』はなんら根拠もなく数字を作るような性質の史料ではない。初平四年としたことも、正月七日としたことも、なにか拠りどころがあるはずだ(『英雄記』は劉表のもとにいた王粲が撰したと伝えられている)。ただし、漢数字の四は「亖」とも書き、二や三とも混同しやすいから誤写の可能性も考えられる。また正月は「五月」との混同が考えられ、じっさい『三国志集解』でも版本によって「五月」と作るものがあるようだ。

かりに正月七日とするのが正しく、ただ没年だけが初平二年の誤りだったと考えた場合、ただちに矛盾に陥ることになる。初平二年二月、董卓は陽人において孫堅の攻撃を防がせており、孫堅に敗れ、四月に洛陽を去って長安に入っている。このことから二年正月の死とするわけにはいかなくなる。では、五月七日だったと考えるべきなのだろうか。孫堅は洛陽入りしたあと諸陵の修復を行い、魯陽に帰還している。さらに予州刺史の地位を争って袁遺や周喁と交戦しており、これを駆逐している。さらに荊州に攻めこんで劉表を討ち、黄祖に殺された。となれば、四月から五月までの足かけ二ヶ月のあいだに、これだけの東奔西走をしたことになる。いかに孫堅の機動力があるとはいえ、このように理解するのは苦しかろう。また、そもそも初平二年の段階では、袁術袁紹の関係は決裂していないから、袁遺や周喁と戦う理由はなかったはずだ。どうも、孫堅の死は初平二年ではないようである。


ところでその周喁だが、孫堅と戦ったのは、袁術が寿春を攻撃したのとほぼ同時期であるかのように書かれている(『三国志孫堅伝の注に引く『会稽典録』)。袁術が寿春を攻撃したのは兖州に進攻して曹操に敗れ、揚州入りした四年春ごろのことである。であれば、周喁が孫堅に敗れたのも初平三年から四年にかけてのことと考えられないだろうか。袁術袁紹が仲違いしたのもこの時期であり、劉表が離反したのも四年のこととされている(『三国志武帝紀)。

袁術が兖州に進攻した事件について、武帝紀の記述はやや混乱があるように思う。背後で劉表が離反したにもかかわらず、袁術が気にする様子もなく南陽を進発しているのも解せないし、曹操に敗れて南陽に戻ることなく揚州に去っているのも奇妙な動きである。おそらく袁術が兖州に向けて進発したのが先で、劉表がその留守を突いて離反したため、袁術は退路を失って揚州に去ったのである。


結論から言えば、孫堅の死は、この兖州進攻に関係していると考えている。

時系列に沿って事件のあらましを追ってみると次のようになる。


初平二年四月、董卓は洛陽を去って長安に入り、かわって孫堅が入洛、諸陵の修復を終えて魯陽に帰還する。

初平三年四月、董卓王允に殺され、かわって李傕が政権を掌握する。同年、(おそらく李傕との交渉をめぐり)袁術袁紹の関係が決裂し、袁紹は袁遺を予州刺史として孫堅と戦わせるが、袁遺は敗走して沛国で死亡。袁紹はついで周喁を送りこむが、これも孫堅を相手に苦戦する。一方、袁術劉備、単経、陶謙らに袁紹を攻撃させるが、敗北。同年暮れごろ、袁術南陽の軍勢を動員して兖州に進攻、州境を越えたところで劉表離反の知らせを聞く。袁術は急遽、孫堅を予州から荊州に回して劉表を鎮圧させ、自身はそのまま兖州への行軍を続ける。

初平四年春、袁術軍が兖州の封丘に着陣、曹操と対決の構えをとる。同年正月七日、孫堅劉表との戦いで戦死する。袁術はその知らせを受け、配下の江夏太守劉祥を南陽に帰して劉表を攻撃させるが、劉祥までもが戦死したため(『三国志劉巴伝の注に引く『零陵先賢伝』)、袁術は根拠地を失ってしまう。袁術曹操に敗れると、荊州に帰ることもできずに予州へ逃れ、孫堅の甥孫賁を予州刺史に任ずる。予州でも敗退して揚州に入り、そこで周喁兄弟を撃破して寿春城に収まる。


以上のように整理すれば、史書の記述の誤りは、孫策の上表文が十九歳とすべきところを十七歳としている一点のみとなり、比較的スムーズに理解ができるのではないかと思う。孫堅伝が初平三年とするのは孫堅が予州を進発した時点を指し、実際に孫堅が死んだのは『英雄記』の述べるとおり年明け早々の四年正月七日のことなのだ。劉表離反が初平四年のこととされているのも同じく、年が明けてから曹操側にその情報がもたらされたからである。

劉表伝では、荊州刺史に赴任した直後、豪族らを謀殺して荊州支配を固めたように読めるが、実際に行動を起こしたのは袁術南陽進発とほぼ同時期と見るべきだろう。それまでは劉表袁術南陽太守に推挙するなど友好的な関係が持たれていた。しかし劉表は傀儡に甘んずることに耐えかね、袁術の留守を突いてクーデターを起こしたのである。孫堅や劉祥の戦死も、劉表の起こしたこのクーデターとは一連する事件と見るべきなのだ。


参考:http://d.hatena.ne.jp/mujin/20091025/p1

追記

初平二年の段階で二袁が訣別していないというのは誤りで、公孫瓚伝の見落としだった。トラックバック欄も合わせてご覧くだされたし。

後漢書献帝紀は界橋の戦いを初平三年としているが、同公孫瓚伝では二年、同袁紹伝も二年冬としている。この戦いに先だち、公孫瓚は袁紹を弾劾して「袁紹は挙兵して二年」と言っているから、初平二年の冬とするのが正しい。献帝紀はおそらくこの戦いの決着が付いた時期を指しているのだろう。

公孫瓚はまた、弾劾文のなかで「袁紹の部将が、予州刺史孫堅の官位を横取りした」とも言っているから、すでに予州をめぐる二袁の争いは始まっているのだ。ただし、『三国志』公孫瓚伝や、その注に引く『典略』では、この袁紹の部将を周昂としているが、これは誤りで、孫堅伝の注にあるように周喁とするのが正しいようだ。また、袁遺も予州では戦っていない。わたしは揚州と混同していたのである。

そうなると孫堅の没年も、二年とまではいかなくとも、三年まではさかのぼる可能性が出てくる。じっさい献帝紀では三年四月以前に挿入されている。二年の暮れに予州を進発して翌三年春に戦死したのだとすれば、孫策の上表文とも矛盾はなくなるだろう。ただしその場合、孫堅が死んでから袁術が揚州に入るまでの約一年間、周喁がそれまでなにをしていたのかはっきりしなくなり、また、すでに劉表との敵対が決定的になっているのにもかかわらず、袁術が国許を空けて兖州になだれこむことができた理由の説明が付かなくなってしまう。