曹鼎は2人いた?

じつに興味ぶかい。

wikipedia:曹休
曹 休(そう きゅう、? - 228年)は、魏の武将。字は文烈。曹操の族子(但し、血は繋がってはいない)にあたり、祖父は後漢の呉郡太守の曹鼎[1]。父の名は不明。子は曹肇、曹纂ら。孫に曹興(曹肇の子)、曾孫に曹攄(曹興の子)、曹識(曹纂の孫)、玄孫には曹毗(曹識の子)らがいる。

1 ^ 曹洪の伯父の尚書令・曹鼎とは同姓同名の別人(『後漢書』「党錮列伝」)。

曹休の祖父の呉郡太守は名が伝わってないと思うのだが、ここでは曹鼎だとしている。それでは尚書令とコリジョンしてしまうではないかと思ったら、ご丁寧にも別人だと注記されている。曹休が曹鼎の孫だとしたら面白いし、曹鼎が同時に2人いたとしても面白い。こんなに楽しい事実があったならルーツ君がほうっておくまい。


しかし根拠が分からない。こういう面白い話はかならず根拠を書いてくれないと、あとで調べられないから困る。ほかに根拠があるのかと思って、削除もできないしね。

わざわざ別人だと言うからには、呉郡と尚書令の双方の名を取りあげた上で、この両者は別人だと論じている書があるはずだ。あるいは、そうでなければ、両人の系譜を調べて別個の位置に在することを証明するとかね。そういう書籍があればぜひご教示願いたい。


筑摩書房三国志曹休伝に、呉郡の名は書かれていない。これが底本とした中華書局『三国志』にも呉郡の名は書かれていない。『三国志集解』にも書かれていない。『後漢書』宦者伝にも、党錮伝にも、『後漢書集解』にも書かれていない。『水経注疏』にも書かれていない。wikipedia:曹鼎にも書かれてないね。

Wikipediaにああ書いた人がコメント残してるかもね。で、履歴をさかのぼってみたら「曹鼎」の名が最初に書かれたのは、なんと2005年11月。およそ4年も前に書かれていた。執筆者はHANSMANNなる人で、利用者ページを見たら「何咸」がどうたらこうたら書いてる。正史の全てが事実でもないし演義でも抹消された事実があるとうんぬん。


どう見てもルーツ君です。本当にありがとうございました。


そのとき書かれた「曹鼎」という字を、だれも消すことができず、いまに至っている。2008年6月にこれを発見した人が削除しているが、祖父の「祖」の字も一緒に削ってしまった。さらに同月中「曹鼎」の字がふたたび挿入されたうえ、尚書令とは別人との注記が初めて現れ、2009年5月に「祖」が戻されてほぼ現在の形になった。

ちなみにweblioでは未だにwikipediaの旧版が採用されている。