劉鎮南碑

『劉鎮南碑』は、劉表の死後、その善政を称えて作られた石碑です。蔡邕作と伝えられていますが、明らかに蔡邕没後に書かれたもので、誤りです。王粲作じゃねえの?って気がします。内容に『三国志』や『後漢書』の本伝と食い違う部分があります。

(原文)為郡功曹,千里稱平,上計吏辟大將軍府,遷北軍中候,在位十旬,以賢能特選拜荊州刺史,初平元年十一月到官.
(訳文)郡の功曹になると千里四方は平安になり、上計吏として大将軍の府に召され、北軍中候に昇進、在職十旬で、賢明有能だということから特別に荊州刺史を拝命し、初平元年十一月に着任した。

三国志』でも『後漢書』でも劉表の職歴は大将軍掾になって以降の記述しかありませんが、ここでは詳しい職歴が明らかにされています。十旬は百日のこと。劉表孫堅を殺したのは初平二年です。『英雄記』では初平四年正月七日としていますが、四年が二年の誤りだとすれば、劉表は着任して2〜3ヶ月で孫堅を倒したことになります。

(原文)南撫衡陽,東綏淄沂,西靖巫山.
(訳文)南は衡陽、東は淄水や沂水の流域、西は巫山を鎮めた。

淄水や沂水?青州や徐州の辺りです。離れすぎてないかい?現地の牧守を介して間接的に支配下に置いていたということでしょうか。故郷の山陽郡に残した部下が活躍していたんでしょうか…。陶謙らが劉表配下?…まさか!

(原文)即遷州牧,又遷安南將軍,領州如故.
(訳文)州牧に昇進し、また安南将軍に昇進し、今まで通り州を宰領することになった。

これはおそらく李傕時代の沙汰でしょう。『三国志』でも『後漢書』でも鎮南将軍だとしていますが、いずれも誤りで、実はまだ安南将軍に過ぎなかったのです。節も与えられていません。この任官は陶謙の安東将軍と対をなしているのかもしれません。

(原文)遣御史中丞鍾繇即拜鎮南將軍,錫鼓吹大車,策命褒崇,謂之伯父,置長史司馬從事中郎,開府辟召,儀如三公.上復遣左中郎將祝耽授節,以筯威重,并督交揚益三州.
(訳文)御史中丞鍾繇を派遣して鎮南将軍に任じ、鼓吹と大車を賜り、詔勅により「伯父」と尊称することになった。鎮南将軍の配下に長史、司馬、従事中郎などの属官を置き、幕府を開いて人材を招聘する権利を与えるなど、格式は三公並みとした。帝はまた左中郎将祝耽を派遣して節を授け、威厳をより増させ、交州・揚州・益州を督させた。

はい、ここ驚くところですよー。鍾繇が御史中丞を務めていたのは許への遷都直後なので、この授与は建安元年のこと。「儀如三公」は儀同三司と同じ。後漢の四鎮は三公並みの顕職だったことが分かります。しかも交州・揚州・益州の三州都督というわけで、孫策だの士燮だの劉璋だのはみんな劉表の部下ということになります。劉表すげー!

(原文)年六十有七,建安十三年八月遘疾殞薨.
(訳文)六十七歳で、建安十三年八月に病気にかかって逝去した。

三国志』『後漢書』本伝は享年を記述していません。ちなみに『演義』では命日を八月戊申としています。

(原文)南鄉太守樂陽亭侯旻思等言及志在州里者,自各發卒,具送靈柩之資.
(訳文)南郷太守・楽陽亭侯の旻思らが州内の有志に呼びかけ、自分たちでそれぞれ人々を動員し、遺体を送り届ける資金を供出した。

劉表の遺体を故郷の兗州に送り届けるため、日ごろ劉表の世話になっていた人々が私財をなげうって資金を調達したということです。