光武帝紀9 「王郎の乱」

後漢紀』抄訳の第九回目。あっという間に河北を平定してしまった劉秀ですが、ここに思わぬ強敵の出現。おそらく劉秀の生涯でも一番の危機でしょう。占い師・王郎の毒牙が劉秀に襲いかかります。(底本では「二年正月」から第二巻に入ります。)


王昌*1は字*2を郎*3といい、邯鄲*4の人である。王郎は星占いに詳しく、河北*5から皇帝が現れるという運気を読みとっていた。河間*6の赤眉*7軍が大挙して攻めよせてきて百姓たちが大騒ぎしたとき、もともと趙*8の繆王*9の王子であり、趙地方の有力な侠客でもある劉林*10と親密であったので、これを手がかりに挙兵することにした。かつて成帝*11の子・劉子輿*12だと称して王莽*13に殺された者がいたので、王郎は自分こそが本物の劉子輿であると詐称して劉林を騙し、劉林の方でも世の混乱を望んでいたので、趙の大豪族である李育*14・張参*15らとともに赤眉軍が攻めてきたから劉子輿を擁立すべきだぞと言いふらし、人々の気持ちを惑わせた。

そして騎兵数百人を率いて、朝、邯鄲に入城し、王宮を占拠した。十二月壬辰、王郎は皇帝を自称し、将帥たちを幽州*16冀州*17の各地に派遣するとともに「朕は成帝の皇子・劉子輿である。王莽が王朝を乗っ取ったときは身を隠しておったが、黄河のほとりで正体を明らかにし、趙・魏*18地方を切り取った。王莽の罪は重く、東郡*19太守*20翟義*21・厳郷侯*22劉信*23らに征討させた。南方の劉氏*24は朕の先駆けであり、聖公*25は天命を知らぬため帝号を称したが、漢の復興はこの地から始まるのである。いま詔勅を下して翟義・聖公に行在所へ参るよう命じた。聖公・翟義の任命した役人たちが民衆を苦しめており、朕は心を痛めておる。それゆえ詔勅を発布したのである」と述べた。百姓たちは漢王朝を懐かしんで翟義はまだ死んでいないと噂していたので、王郎は人々の願望を利用して嘘を吐いたのである。こうして趙国より東、遼東*26に至るまでのすべてが風になびくように服従した。

茂陵*27の人である耿弇*28は字を伯昭*29といい、父の耿況*30は王莽時代に朔調*31連率*32となっていた。更始帝*33が即位したあとも、各地を攻め取ろうとする諸将が何人も現れた。そこで耿弇は耿況と別れて京都*34へ行き、貢ぎ物を捧げて保証を立てようとした。耿弇はこのとき二十一歳であった。宋子*35まで来たところで王郎が反乱を起こしたことを知り、役人の孫倉*36・衛苞*37が邯鄲へ行って降服すべきだと勧めた。耿弇は剣に手をかけて叫んだ。「危険を恐れず長安へ行くのは劉氏を助けんがため。京都に着いたら上谷・漁陽*38から援軍を志願し、太原*39・代郡*40を往復しつつ数十日で帰国し、突騎*41を動員して烏合の衆を蹴散らせば、勝利は枯れ木を砕くほど簡単である。公*42らが一族皆殺しになるのは先のことではないぞ。」孫倉・衛苞は聞き入れずに逃げ去った。

耿弇は劉秀*43が盧奴*44まで来ていると聞き、道を引き返して会いに行った。劉秀は耿弇を門下吏*45に任命した。耿弇は護軍*46朱祜*47を通じて「帰国して兵士を集めてきます」と申し入れ、劉秀に立派なやつだと認められた。耿弇はまた耿況にあてて手紙を書き、劉秀の度量・武略について説明し、急いでお越しになり拝謁なさいますようと述べた。耿況はそこで昌平*48に駆けつけ、息子の耿舒*49に馬を献上させた。

二年正月、薊*50に到着したとき、王郎が劉秀を十万戸の賞金首とした。薊の城内は大騒ぎになり、王郎の使者がいまにも到着するという者もあり、太守以下の役人たちはみな城外へ迎えに出た。

劉秀が属官たちを呼んで相談すると、耿弇が言った。「敵軍が南方から来ているのですから、もう南へ行くことはできません。上谷太守耿況・漁陽太守彭寵*51は公と同郷の人*52です。この両郡から強弩兵一万騎を動員すれば向かうところ敵なし。邯鄲など攻めるまでもありません。」しかし属官たちはみな南方の出身だったので、口々に「死んでも南へ行くのです。どうして北へなぞ行けるものですか?」と言った。すると劉秀は耿弇を指差して「この人が北方行きを指導してくれるさ」と言った。

劉秀の馬車が役所を出たとき、属官の中には付いてこない者もあった。しかも耿弇とはぐれてしまい、路上には人々がひしめき合って劉秀を討ち取らんと待ちかまえていた。銚期*53が戟*54を手にして先頭に立ち、目を怒らして叱りつけながら進んだ。城門まで辿りつくと、すでに閉鎖されている。そこで攻撃をかけ、ようやく脱出することができた*55

朝も夜もかまわずに進み、霜も雪もこえて行き、どこか城下を通りすぎることがあっても入城はせず、一日中、なにも食べられない日もあった。饒陽*56の蕪蔞亭*57では、馮異*58が自分の豆粥を献上した。劉秀は「公孫*59が豆粥をくれたから、飢えも寒さもなくなったよ」と言った。そのとき亭長*60に向かって「閉門せよ」と告げる者がいたが、亭長は「天下はこの先どうなるか分かりません。長者を閉じこめてどうするのですか?」と拒絶した*61

劉秀はそのまま南へ行き、呼陀河*62まで来た。道案内の者が戻ってきて船がなければ渡れませんと報告したので、属官たちはみな真っ青になった。劉秀は王霸*63をやって確かめさせた。王霸は人々を心配させてはまずいと思い、「かたく凍っているので渡れます」と即答したので、人々は大喜びした。河に差しかかったころには、ちょうど凍っていて渡れるようになっていた。渡り終えたあと、劉秀が王霸に向かって「わが軍を安心させて渡河させたのは、あなたの手柄だな」と言うと、王霸は「これこそ明公*64の徳義、神霊の助けであります」と答えた。劉秀は宣言した。「王霸が機転を利かせて全軍を守ってくれた。これこそ天の賜物だ。功労者を表彰せねば後日の手本にならない。そこで王霸を軍正*65とし、関内侯*66爵位を与える。」

そこから先、どう行けばよいか分からなくなった。一人の老人が道端に立っていて、「信都*67長安側に味方して守りを固めておるぞ。この先、八十里じゃ!」と言った。信都太守任光*68・都尉*69李忠*70が、劉秀の到着を聞いて出迎えた。

*1:おうしょう。以下、原文では「王郎」(おうろう)と表記。

*2:あざな。通称。実名を呼ばないのが礼儀とされた。

*3:ろう。

*4:かんたん。県名。

*5:かほく。黄河北岸の平原地帯。

*6:かかん。郡名。

*7:せきび。山東半島の盗賊集団。眉を赤く塗ったことからその名で呼ばれる。

*8:ちょう。国名。

*9:きゅうおう、ぼくおう。「繆」を称号とする国王。

*10:りゅうりん。

*11:せいてい。劉驁(りゅうごう)のこと。

*12:りゅうしよ。

*13:おうもう。新王朝の皇帝。前漢を滅ぼした。

*14:りいく。

*15:ちょうしん。

*16:ゆうしゅう。州名。

*17:きしゅう。同上。

*18:ぎ。古代の国名。

*19:とうぐん。郡名。

*20:たいしゅ。官名。郡の長官。

*21:たくぎ。前漢の武将。王莽を排除しようとして敗死した。

*22:げんきょうこう。厳郷を領地とする諸侯。

*23:りゅうしん。前漢の武将。翟義とともに挙兵した。

*24:更始帝や劉秀兄弟のこと。

*25:せいこう。更始帝・劉玄(りゅうげん)の字。

*26:りょうとう。郡名。

*27:もりょう。県名。

*28:こうえん。

*29:はくしょう。

*30:こうきょう。

*31:さくちょう。郡名。漢の上谷(じょうこく)にあたる。

*32:れんそつ。官名。漢の太守にあたる。

*33:こうしてい。劉玄のこと。

*34:長安を指す。

*35:そうし。県名。

*36:そんそう。

*37:えいほう。

*38:ぎょよう。郡名。

*39:たいげん。郡名。

*40:だいぐん。郡名。

*41:とっき。精鋭騎兵。

*42:こう。二人称。あなた。

*43:りゅうしゅう。光武帝(こうぶてい)。後漢創始者

*44:ろど。県名。

*45:もんかり。官名。

*46:ごぐん。官名。

*47:しゅこ。原文に「朱祐」(しゅゆう)とあるのは、のちの皇帝・劉祜(りゅうこ)の名を避けたもの。

*48:しょうへい。県名。

*49:こうじょ。

*50:けい。県名。

*51:ほうちょう。

*52:耿況は茂陵の人であり、誤り。

*53:ちょうき。

*54:げき。柄の長い武器。

*55:饒陽・呼陀河・信都はみな薊の南方にある。耿弇とはぐれたため上谷行きを諦め、敵中突破を図ったのである。

*56:じょうよう。県名。

*57:ぶるてい。亭名。亭は郷に属する行政単位。

*58:ふうい。

*59:こうそん。馮異の字。

*60:ていちょう。官名。亭の管理者。

*61:後漢書』では亭の役人が閉門を命じ、門番が拒絶したとする。

*62:こたが。河川名。

*63:おうは。

*64:めいこう。大臣を呼ぶときの敬称。

*65:ぐんせい。官名。

*66:かんだいこう。領地を持たない諸侯。

*67:しんと。郡名。

*68:じんこう。

*69:とい。官名。太守の副官。

*70:りちゅう。