曹幹の生年

三国志』武文世王公伝の注に引く『魏略』
曹幹は一名良という。良は本来陳妾の子であったが、良が生まれると陳氏は死んだ。太祖は王夫人に彼を養育させた。良が五歳のときに、太祖は病気が重くなったので、太子に遺令を与えた、「この子は三歳のとき母をなくし、五歳で父を失うことになる。だからおまえに頼むぞ。」太子はそのため他の弟たちより目をかけた。良は年少であったためつねに文帝をお父さんと呼んだ。帝は良に向って、「わしはおまえの兄なのだぞ」といった。文帝はまた彼がそんなふうであるのをあわれんで、いつも〔父母を失った〕彼のために涙を流した。

曹操が死んだのは建安二十五年(二二〇)だから、数えで五歳の曹幹の生年は建安二十一年ということになる。ところが本伝では、

趙王曹幹は、建安二十年(二一五)、高平亭侯にとりたてられた。

とあり、生まれる前に封侯されたことになり矛盾している。どこかが間違っている。以下4つの可能性が考えられる。

  1. 本伝の曹幹と『魏略』の曹良は別人。
    曹操の遺令は、陸機の『弔魏武帝文』の一節に合致しており、そこでは曹操が「季豹」という幼子を託したことになっている。別名を曹豹というのは、沛王曹林のことである。しかし曹林が封侯されたのが建安十六年であることは本伝のほか、武帝紀注に見えている。曹操の臨終のおり、曹林はすでに幼子ではなかった。
  2. 曹操の遺令は二十五年以前に出されていた。
    遺令が二十四年に出されたものであれば辻褄が合う。しかし曹操荊州にあって関羽討伐戦の帰途にあり、洛陽に戻ったのは年明けの二十五年正月になってからである。諸子が荊州へ見舞いに行ったとの記録もない。
  3. 曹操が死んだとき曹幹は六歳以上だった。
    『魏略』か、その書写の誤りで、本来は「三歳のとき母をなくし、六歳で父を失う」とすべきであったのかもしれない。この場合は、曹幹が六歳以上であっても筋は通る。ただし、五という文字を六と誤ることは考えにくい。
  4. 曹幹が高平亭侯に取り立てられたのは二十一年だった。
    本伝に「二十年」とあるのが誤りで、正しくは「二十一年」であった可能性がある。一の文字が抜けることはしばしば例がある。楚王曹彪は曹幹より二十歳ほど年上であるが、初めて封侯されたのは二十一年である。陳留王曹峻、中山王曹袞も同様である。一方、曹幹を除けば二十年に封建された例はなく、曹賛が済陽王家を継いだというだけである。

総合的に考えて、本伝の誤りで、曹幹は建安二十一年生まれで、同年に封侯されたとするのが自然であるように思う。この年は、曹操が魏王に封ぜられた年に当たる。裴松之は、興平二年(一九五)生まれの曹彪との歳の差を二十だと言っているが、裴松之の時代、すでに建安二十年と誤伝されていたのだろう。

豹とは曹林の小字であると同時に、曹幹の小字でもあって、おそらく兄弟で同じ字を共有していたのではないだろうか。年長者である曹彪が字を朱虎というのも、その関連だろう。