海西・淮浦の乱

三国志』徐宣伝
(原文)海西﹑淮浦二縣民作亂,都尉衞彌﹑令梁習夜奔宣家,密送免之.太祖遣督軍扈質來討賊,以兵少不進.宣潛見責之,示以形勢,質乃進破賊.
(訳文)海西、淮浦の両県の県民が反乱を起こしたので、都尉の衛弥、令の梁習が夜中に徐宣の邸宅へ駆けつけ、ひそかに送りだして彼らを逃した。太祖は督軍の扈質を討伐に寄こしたが、(扈質は)軍勢が少ないので前進しなかった。徐宣はひそかに訪問して責めたて、戦況を説明した。扈質はそこで前進して賊軍を撃破した。

陳登は広陵太守として孫策に睨みをきかせていたとはいえ、治府を射陽に置いたということから見ても、実際に支配力をおよぼしたのは郡の北部のみで、南部はほとんど孫策の影響下にあったと思われる。しかも、その北部でさえ必ずしも安定はしていなかった。

海西は陳瑀の駐屯地であり、淮浦は陳氏の故郷であり、いずれも陳氏に対してもっとも忠誠心の厚い地域だったはずである。それが、このような反乱を起こしたというのは尋常ではない。おそらく、この戦いは呂範が北上して陳瑀を走らせた一件に連動している。そうでなければ、陳氏の膝元であるこの地で反乱を起こすなど自殺行為である。

曹操はこの孫策軍の侵攻にまったく為すすべなく、せいぜいこの一件でしか名を伝えない扈質なる能力乏しい人物を寄こすことしかできなかった。その扈質もほとんど手勢を持たず手ぶら同然で来ている。だから敵の大軍を目前にして手も足もでなかったのである。地元の地理、情実に明るい徐宣が代わりにお膳立てをしてやって、ようやくゲリラ戦で勝利を納めることができた程度なのだ。

曹操がこのようなおざなりな対応しかできなかったところから見ても、この戦いが孫策の時代に行われたことが窺われる。孫策の死後、孫権が事業を継承したころには、曹操もすでに袁紹を大破して軍事的優位を有しており、このような泥縄の対応はしなかったはずだ。もっとも、それは両県の反乱が呂範北上に対応するものと仮定した場合での話であり、あるいは、たとえば劉備の離反に呼応したものであればまた話は変わってくるのだが。

なお、ここで曹操を「太祖」と呼んでいるのは陳寿の誤りで、梁習が海西令になったときには、曹操はすでに司空に在職しており、本来ならば「公」と呼ばれるべきである。