後漢

王子服

Wikipedia:王子服 一般的に姓が「王」、名は「子服」と思われているがこれは誤りで、「子服」は字とされている。 いったいどこのだれが「字とした」のか、そこんとこ明記してほしいんだけど、それがない。べつにWikipediaに限られる話ではないけど、普通に「…

光武帝紀26 「諸方鎮撫」

夏四月、呉漢*1は五校*2賊を攻撃、追いかけて東郡*3・平原*4まで行き、さらに撃破した。鬲*5県の五つの氏族が反乱を起こして守長*6を追放した。諸将が「朝から鬲を攻撃すれば、暮れには陥落させられますよ」と言うので、呉漢は腹を立てて、「鬲の城下へ行く…

ネット右翼

檄文と書いてネットと読む。 『後漢書』袁紹伝 (原文)馥於是方聽紹舉兵。乃謀於眾曰:「助袁氏乎?助董氏乎?」治中劉惠勃然曰:「興兵為國,安問袁、董?」 (訳文)馥これにおいてまさに紹の兵を挙ぐを聴かんとし、すなわち衆において謀りて曰く、「袁氏…

董卓の呪い

董卓の邸宅は洛陽の永和里にあった。 『洛陽伽藍記』修梵寺 (原文)修梵寺,在靑陽門內御道北。(略)寺北有永和里,漢太師董卓之宅也。(略)邢巒家嘗掘得丹砂及錢數十萬,銘云:「董太師之物。」後夢卓夜中隨巒索此物,巒不與之,經年巒遂卒矣。 (訳文)…

劉焉父子

劉焉父子がいかにして益州豪族を抑制し、支配権を確立したのか、簡単に図式化してみる。 まず馬相が挙兵する。これに賈龍が対抗。どちらも益州民である。豪族同士の勢力争いと見られる。賈龍が馬相を破り、劉焉を推戴する。その後も馬相一派のパージが続いた…

陳球の名

陳球の名には「玉」が含まれている。陳球の子の陳瑀、陳琮、弟の子の陳珪の名にも「玉」が含まれている。諸葛瑾が父の諸葛珪と「玉」を共有しているので実は兄弟なんじゃないかという人がいるんだけど、それを採用すると、陳球はどうなるのかって話になって…

両漢魏晋戸数推移

http://mujins.chicappa.jp/mujins/resource/NumOfHouses.xlsだれか一人くらいはこんなヒマなことやってもいいんじゃないか。 戸数 前漢から後漢、後漢から晋にかけて、全体的に大きく減少。ただし後漢の荊州、揚州、益州のみは急増、交州も微増し、大陸南部…

後漢の大将軍

隗囂:西州大将軍 鄧禹の承制により西州大将軍を拝すとあり。 王常:横野大将軍 はじめ更始の廷尉大将軍、のち横野大将軍を拝し、位次諸将に席を絶すとあり。 耿弇:建威大将軍 はじめ大将軍、のち建威大将軍を拝すとあり。 岑彭:征南大将軍 はじめ廷尉・行…

厳虎

『三国志』討逆伝に「厳虎」という人が見えていて綽名を「白虎」というらしいんだけど、ちくまの訳本だとすべて「厳白虎」に揃えられてて、もしかしたら、かれが「厳虎」とも呼ばれてる事実ってあんまり知られてないのかも……。ちくまって、こういうところで…

後漢と三国

三国はなんかバタ臭いけど、後漢はおしゃれ。ですよね?関羽!とか孔明!とか曹操!とか言われたら「うへぇっ」ってなるけど、呉漢!とか鄧禹!とか馮異!とかだと「おぉー!」ってなる。三国迷は「きんもーっ☆」って感じるの多いけど、後漢迷は「あ、この人…

徐州史

ちょっと徐州の動向について下邳陳氏を中心に推測と捏造を交えておさらいしてみる。 まず、袁術伝によると、陳珪と袁術は家族ぐるみで交流する間柄。袁術とはもちろん、袁紹や曹操とも親交があったと思われる。そうした縁から、袁術は陳氏本家の陳瑀を揚州刺…

陳琮と陳公琰と陳応と陳某と陳某

陳琮というのは陳瑀の弟、汝陰太守。字は不明。ただ、『三国志』呂範伝の注に引く『九州春秋』に、袁術に攻められた陳瑀が弟の公琰を使者として和睦を乞うた、という記事があり、この公琰が陳琮と同一人物と考えられている。陳応というのは陳珪の中子(次男…

陳瑀軍団

ゲームするとき考えるのめんどいと思って、代わりに考えといたよ。陳登とか陳矯とかはすでに登場済みだと思うけど参考のため勝手に入れといた。データは適当にいじってね。 陳球 伯真 (ちんきゅう はくしん) 統40 武40 知70 政80 陳瑀 公瑋 (ちんう こうい) …

海西・淮浦の乱

『三国志』徐宣伝 (原文)海西﹑淮浦二縣民作亂,都尉衞彌﹑令梁習夜奔宣家,密送免之.太祖遣督軍扈質來討賊,以兵少不進.宣潛見責之,示以形勢,質乃進破賊. (訳文)海西、淮浦の両県の県民が反乱を起こしたので、都尉の衛弥、令の梁習が夜中に徐宣の…

零陵城

『後漢書』陳球伝 (原文)而州兵朱蓋等反,與桂陽賊胡蘭數萬人轉攻零陵.零陵下溼,編木為城,不可守備,郡中惶恐. (訳文)しかし州兵の朱蓋らが反乱を起こし、桂陽の賊である胡蘭の数万人とともに零陵に攻めよせた。零陵は低湿地にあって材木を組んで城…

陳登vs孫策

『三国志』張邈伝の注に引く『先賢行状』によると、陳登は匡琦城において2度にわたり孫策の侵攻を防いでいる。この匡琦城*1だが、まずその名称についてはおそらく人名に由来しているのだろうと言われている*2。ただ、場所が分かってない。孫策伝の注に引く『…

もうブチ切れた!

今までさんざん陳氏はあなどれん陳氏はあなどれんと言ってきたのにだーれもぜんぜーん聞いてくんないから地図書いた。 赤いのが陳氏の故郷である下邳国、および陳登の守っていた広陵郡。群雄割拠の時代に直轄支配を確立しえた領域。黄色は影響圏。陳珪が沛相…

薛州

『三国志』呂布伝注引先賢行状 (原文)登在廣陵,明審賞罰,威信宣布.海賊薛州之群萬有餘戶,束手歸命. (訳文)陳登は広陵にあって賞罰を明らかにし、威信を敷き広めた。海賊である薛州一味の一万戸あまりは手向かいせず帰服した。 魏呉の国境で一万戸の…

名郡

名将がらみで。 『三国志』孫策伝注引呉録 策上表謝曰:「臣以固陋,孤持邊陲.陛下廣播高澤,不遺細節,以臣襲爵,兼典名郡.…」 『晋書』劉弘伝 朝廷以初雖有功,襄陽又是名郡,名器宜慎,不可授初,乃以前東平太守夏侯陟為襄陽太守,餘並從之.陟,弘之壻…

中国英雄板

また移転か。 【王莽】新〜後漢初【光武帝】 http://gimpo.2ch.net/test/read.html/chinahero/1162029599/l50 【六朝】魏晋南北朝【五胡十六国】 http://gimpo.2ch.net/test/read.html/chinahero/1161676305/l50 三国志・蜀将討議スレッド17 http://gimpo.2c…

荊州改易の件

【三国志博物館集解】曹操の「禹貢九州」再編 討論場の章陵郡の件。献帝起居注の九州再編の記事内に、章陵郡を含めたもとの荊州八郡が列挙され、章陵郡の考証の材料の一つになったわけです。 しかし『晋書』地理志と照らし合わせると、問題発生。討論場でも…

光武帝紀25 「忠言の二士」

劉秀の奔放磊落なふるまいに宋弘、桓譚が苦言を呈します。桓譚はその後、劉秀にうとんじられて六安郡丞に左遷され、赴任への道中で失意の病死をとげました。せりふが長いぜ。

袁紹と逢紀

袁紹の実父は袁逢って人なんだけど、逢紀を呼ぶときに困らなかったんかな。

張魯の名

張魯の名は国とおなじ名だ。弟の張衛も国名。劉璋に殺されたもう一人の弟も陳とか宋とかみたいな名だったかもしれない。魯国と衛国の共通点から法則が見つかるんじゃないかと思ったけど、詩は魯、斉、韓だし、よく分からない。孔子にゆかりの地?はてさて。

逢紀とするのは誤記?

前々から気になってたことをやっと調べてみる気になった。 『後漢書』劉盆子伝に逢安という人物が登場する。注にいわく、 『東観記』に言う。「'逢'は'龐'と発音する。」 また集解にいわく、 劉攽は言う。「愚考するに'逢'の字は'夅'を含んで'龐'と発音する…

蘭卿

曹芳の字を見ていたら、呉子蘭と呉子卿は同一人物じゃないかという気がしてくる。「蘭」と「卿」の二字はまるきり無関係でもないらしく、『後漢書』彭寵伝に子后蘭卿、『唐書』宰相世系表に徐万秋蘭卿という人が出てくる。呉子卿は何顒らと「奔走の友」の契…

光武帝紀24 「諸将 奮戦す」

劉秀は赤眉軍を降したものの、まだまだ強敵は多く、呉漢が負傷し、朱祜が生け捕りにされるなど、諸将は苦戦を強いられます。呉漢・岑彭らの活躍で山東・荊楚の攻略が進められ、そうした情勢のなか群雄の一人劉永が部下に斬られて落命します。

光武帝紀23 「赤眉を降す」

鄧禹が失策を重ねるなか、馮異が頭角を現して赤眉軍・延岑を撃破。赤眉軍は宜陽に逃れて劉秀に降服。山東に起こり、中原をへて関西を荒らしまわった赤眉軍も、ついに歴史の表舞台を立ちさります。

関羽は左伝をそらんじたか

『後漢書集解』は傅燮伝で恵棟の説を引いている。いわく、 (原文)惠棟曰:「此傳,全採燮孫元所撰傅子也。」 (訳文)恵棟は言う。「この伝記はすべて、傅燮の孫・傅玄の書いた『傅子』から採用されている。」 つまり当人の孫の書いた祖父の伝記がそのまま…

袁綏

『三国志』陸瑁伝注 (原文)迪孫曄,字思光,作獻帝春秋,云迪與張紘等俱過江。迪父綏為太傅掾,張超之討董卓,以綏領廣陵事。 (訳文)袁迪の孫袁曄は字を思光という。『献帝春秋』を著作し、袁迪は張紘らとともに長江を渡った、と書いている。袁迪の父袁…